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国分 三蔵(こくぶのさんぞう、生没年不詳)は、江戸時代の博徒。甲州博徒の一人。 == 略歴 == 生没年・出自ともに不詳。三蔵は甲州街道沿いである甲斐国国分村(笛吹市一宮町)を中心に甲府盆地東部を縄張りとしており、西保中村(山梨市牧丘町)の博徒西保周太郎と敵対した一之宮村の古屋左京の勢力を継承したとされる〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.16〕。 三蔵に関する史料は少なく、1895年(明治28年)頃作製の『雑記帳(岩間源七郎雑記帳)』〔『調査・研究報告6』Ⅰ - 20において部分翻刻、『山梨県史民俗調査報告書第四集 ニノ宮の民俗-東八代郡御坂町-』、p.149において全文翻刻。〕に拠れば子分は竹居安五郎1000人、黒駒勝蔵500人に対し三蔵は子分300人を従えていたという。また、明治4年(1871年)の黒駒勝蔵捕縛に際した供述書である『山梨県史綱抄録 政治部 刑(明治元 - 13年』〔国立公文書館、府県史料山梨、『調査・研究報告6』Ⅰ - 1。〕や、『慶応二丑年四月 請書連印帳 清水新魚町 丁頭 甚四郎扣』(慶応2年(1866年)4月〔『調査・研究報告6』Ⅰ - 12、『清水市史資料 近世第一』 - 31号〕)にも名が見られ、清水次郎長の一代記である天田愚庵の『東海遊侠伝』(巻四・第十二回)中にも「勝沼ノ三蔵」の表記で登場している。 勝沼の祐天仙之助や御殿伝蔵、犬上郡次郎とともに甲府の博徒・目明しである三井卯吉の子分となる。三蔵は駿河国の博徒清水次郎長の舎弟分である御殿伝蔵を配下に抱え、安政4年(1857年)に卯吉が敵対する博徒の連合部隊によって殺害された後に次郎長と交誼を結ぶ。文久2年(1862年)には関東取締出役や祐天仙之助、上野国の浪人犬上郡次郎らと竹居村の竹居安五郎を捕縛させる。その後も安五郎の勢力を継承した上黒駒村(笛吹市御坂町)の黒駒勝蔵と敵対し、出入を繰り広げる。 元治元年(1864年)3月には居宅を勝蔵一派に襲撃されて焼失し〔『調査・研究報告6』Ⅰ - 1、『静岡民友新聞』1916年(大正5年)12月25日・同27日、『調査・研究報告6』Ⅱ - 3所載〕、行方をくらましており、殺害されたとも言われていたが〔髙橋(2013)、p.9(92)〕、後述する新出史料の発見で慶応3年(1867年)頃までは活動が確認されることとなった。 三蔵の子分古屋留吉は三蔵と黒駒勝蔵との抗争について証言を残しており、三蔵を田安家の目明し的存在であったとしている。また、三蔵の人物について触れ「仏の三蔵」と評している〔『静岡民友新聞』1916年(大正5年)12月27日)〕。 三蔵の生没年は不明であるが、同じく三井卯吉の子分であった祐天仙之助(1824年生)と同年代である可能性が考えられている〔髙橋(2013)、p.21(80)〕。また、国分三蔵を武蔵国高萩(埼玉県日高市)出身の博徒で目明し的存在でもあった高萩万次郎と同一人物であるとする説がある〔今川徳三『新・日本侠客100選』秋田書店、1990年、pp.135 - 137〕〔高橋敏『博徒の幕末維新』(筑摩新書、2004年)、pp.184 - 185〕。この説の根拠は不明であるが、明治31年(1898年)「近世侠客有名鑑」では三蔵を「武フ国府ノ三蔵」と記していることや、三蔵が関東取締出役とともに竹居安五郎を捕縛している事実などから生じた説であるとも考えられている〔髙橋(2013)、p.21(80)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国分三蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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