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国分宗政(こくぶんむねまさ、生没年不明)は、日本の戦国時代に陸奥国宮城郡にいた武将である。能登守を称した。はじめ盛光といったとする伝えがあり、また、弾正少弼を称した国分宗綱も同一人物とされる。周辺の土豪を従えて宮城郡南部から西部を支配する勢力を築いた。が、大局的には伊達氏の威勢に服し、1536年に大崎氏への介入で伊達氏に従って兵を出し、1542年以降の天文の乱では伊達稙宗側についた。1572年に引退した。法名は覚海宗公大禅門。 ==系譜== 江戸時代に佐久間義和が編纂した「平姓国分系図」〔以下、佐久間編の系図については『仙台市史』第3巻(別編1)232-246頁による。〕によれば、小字を九郎、はじめ盛光と称したが、国分胤実の長女と婚して国分氏を継いだ。永正5年(1508年)2月、伊達尚宗から宗の字をもらい、あわせて伊達氏と同じく藤原姓を称することを許されたという。氏はそのままで姓だけ拝領したという説に従う歴史学者はいないようだが、宗の字の使用に伊達氏の許しがあったとする説には支持がある〔『仙台市史』通史編2(古代中世)403頁。〕。子に盛氏、女(掛田義宗の室)、盛基(横沢氏の祖)、景氏(白石氏の祖)、盛貞(郷六氏、後の森田氏の祖)、女(浜田景信の妻)、女(天童頼貞の妻)、女(金沢重隆の妻)、俊久(亘理郡坂本の千葉氏に入婿)があり、長子の盛氏が後を継いだ。 これに対し、古内氏蔵の「平姓国分系図」〔以下、古内氏所蔵の「平姓国分系図」については『宮城県史』第1巻(古代中世)206頁による。先行する1950年刊『仙台市史』第3巻にほぼ同じ図があり、両書とも該当箇所は佐々木慶市が執筆を担当した。〕では国分常政の子で、五郎太夫といった。子の盛氏が後を継いだとする点で両系図は一致する。 佐久間編の系図によれば、文明13年(1481年)に国分で生まれ、没年は永禄7年(1564年)12月4日、年74歳。古内氏蔵の系図では永禄2年(1559年)没〔『宮城県史』復刻版第1巻206頁。〕。しかし、本項末尾に記したように、1571年に宗政の存命が確実である。系図、伝えは江戸時代に書きとめられたもので、あまり信をおけないようである〔2000年刊『仙台市史』通史編2(古代中世)220-221頁。〕。 官位として称したのは、佐久間による系図で正六位上弾正忠兼能登守、古内氏蔵の系図では刑部少輔能登守。鐘銘、棟札により確実なのは能登守である。 現在の仙台市青葉区上愛子にある諏訪神社の棟札に、国分能登守宗政が見える。複数の棟札をつきあわせると、国分氏の当主の地位は広政、宗政、宗元と継承されたと推定され、系図とはだいぶ異なる。〔2000年刊『仙台市史』通史編2(古代中世)373-374頁。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国分宗政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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