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国友 忠(くにとも ただし、1919年(大正8年)2月14日 - 2005年(平成17年)5月22日)は、東京府(現・東京都)出身の浪曲師。本名は大熊国一。 浪曲師として舞台、放送、レコード等で活躍。浪曲台本はオリジナルが百数十席、脚色も二千数百席に及び、連続ラジオ小説「銭形平次」を日曜日を除き毎日、5年間続けたことは放送ドラマの記録となっている。1980年代には私財を投げ打ち中国残留邦人らの帰国や日本定住の支援活動に尽力した。 == 来歴 == *1919年(大正8年) - 東京府・府中本町生まれ。9人兄妹の末っ子で、父は鳶職(とびしょく)の親方。 *1933年(昭和8年) - 15才で初代木村重友に入門。木村友栄を名乗る。「勝五郎の義侠」を読んで初舞台を勤めた。 *1939年(昭和14年) - 木村小重友を襲名、真打に。 *1940年(昭和15年) - 入営。麻布三連隊から北支に派遣される。戦中は中国で中国人になりきって最前線で諜報活動に従事。 *1943年(昭和18年) - 除隊となり帰国。 *1944年(昭和19年) - 再び召集、中国に渡る、中国人2000人を引率して戦闘に加わる(東宝で映画化した岡本喜八監督の「独立愚連隊」はこの時の国友をモデルにしたもので、原案は国友の作である)。 *1946年(昭和21年) - 浪曲界に復帰。野村胡堂の「銭形平次 捕物控」を脚色して自演(ペンネーム:河北省一)。数々の新作台本執筆。 *1951年(昭和26年) - 「新人浪曲競演会」優勝。 *1952年(昭和27年) - 帝国劇場の公演に於いて国友忠と改名し、この頃から放送界で活躍する(ここから約30年に渡り、曲師の沢村豊子が放送・舞台・レコードなどで国友の相三味線をつとめた)。文化放送で連続ラジオ小説「銭形平次」を日曜日を除く毎日、5年間続けたことは放送ドラマの記録となる。 *1953年(昭和28年) - ラジオ東京(TBS)の専属になる。 *1964年(昭和39年) - 多忙で体調を崩し、茨城県三和町(現古河市)に転居し静養生活。快復後は広い土地を牧場にし、競走馬を育成。 *1982年(昭和57年) - 歌舞伎座で復帰公演「国友忠の会」。この時期に中国残留邦人の存在が明らかになり、その事実にショックを受ける。以後十数年、残留邦人の救済に私財と生活のすべてを賭け、民間団体「春陽会」を設立、残留邦人を帰国させた。 *2005年(平成17年) - 5月22日午前0時5分、転移性肺がんのため茨城県三和町の病院で死去。享年86。 *2012年(平成24年) - 10月、国友の中国戦線で諜報活動や残留邦人の救済活動の経緯を描いたドキュメンタリードラマ、日中国交正常化40年特別番組「強行帰国〜忘れ去られた花嫁たち〜」がTBS系より放送。主役の国友忠役は渡哲也が務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国友忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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