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国吉 真吉(くによし しんきち、1848年 - 1926年)は、琉球王国時代から明治期にかけて活躍した沖縄県の武術家。 == 概要 == 国吉真吉(琉球方言で、クニシ シンキチ)は、1848年、父・国吉真善、母・マチの長男として那覇・久茂地村に生まれた。あだ名は、のちに名護間切(現・名護市)に転居した事から“久茂地の山原国吉(やんばる・くにし、やんばるは名護など国頭郡の俗称)”〔「武士・本部朝基翁に『実戦談』を聴く!」『琉球新報』昭和11年11月9-11日記事参照〕と呼ばれた。因みに、廃藩置県以前の沖縄本島には「山原」という名字(家名)は存在しないので〔『沖縄県姓氏家系大辞典』(角川書店、1992年)の「山原」(584頁)の項目参照。〕、これは山原国吉(やまはら・くにきち)という姓名ではない。他に“国吉のタンメー”、“武士国吉”とも呼ばれた。国吉家は、査姓国吉親雲上真元を元祖とし、その七世国吉筑登之親雲上五男真一を系祖として分かれた琉球士族であったとされる〔『沖縄空手古武道事典』427頁参照。〕。 国吉真吉について述べた戦前の文献は殆ど存在しないが、本部朝基が1936年(昭和11年)那覇で開催された座談会で、自分が師事した武術家の一人として松村宗棍、佐久間親雲上、松茂良興作、糸洲安恒ら大家とともに国吉真吉の名を挙げているので〔「武士・本部朝基翁に『実戦談』を聴く!」参照。〕、当時としては相当著名な武術家であったようである。 国吉は鉄拳で有名で堅く踏みしめられたシナジーと呼ばれる砂地の地面を突いてめり込ませたなどの逸話がある。また、ハーリーでは久米村と久茂地村が対決した際、あわや大乱闘となりかけたが国吉の活躍でその場が収まったという。 国吉は、60歳の頃、名護へ転居して当地で中村茂(沖縄拳法)に空手を教授した。現在はこの系統が国吉の直系である。後裔の話によると、国吉は山原地方で薪商を営んでいたという〔『沖縄空手古武道事典』427頁。〕。1926年、78歳で死去した。 国吉の師匠は判然としないが、一説には湧田の崎山筑登之親雲上喜徳とする文献もある〔『沖縄空手古武道事典』427頁。〕。崎山は中国武術家・アソンに師事した「泉崎の崎山」(那覇手)の事で、弟子には他に豊見城親方がいた〔安里安恒談・松濤筆「沖縄の武技(中)」『琉球新報』大正3年1月18日。〕。中村茂によれば、国吉はニーセーシ(一般には新垣派の型とされる)を伝授したとされるので〔「古武道3・中村茂(67歳)ニセシ」『沖縄タイムス』1961年11月17日。 〕、東恩納寛量以前の那覇手を習得していた可能性は考えられる。もっとも沖縄拳法で伝承されている他の型の大半は首里手・泊手の系統であり、実際には複数の師匠に師事していたと見るべきかもしれない(ただし中村茂は、国吉以外にも糸洲安恒、本部朝基、喜屋武朝徳らにも師事・交流しているので、伝系の正確な割り出しは困難ではある)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国吉真吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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