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國場 幸之助(こくば こうのすけ、1973年1月10日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(2期)。元沖縄県議会議員(2期)。 父方の大叔父は元衆議院議員の國場幸昌、祖父は國場組創業者の國場幸太郎。義父は元沖縄県議会議員の西田健次郎。 == 来歴 == 沖縄県那覇市生まれ。生家は県下最大のゼネコン「國場組」の創業者一族で、父は元國場組代表取締役社長の國場幸治。那覇市立開南小学校、那覇市立上山中学校、沖縄尚学高等学校卒業。学生時代に政治家を志す。高校卒業後、1年間の浪人生活を経て日本大学文理学部哲学科に入学するも古代ギリシャ語で挫折し、中退した。その後、保守系政治家を多く輩出した早稲田大学雄弁会に憧れ、当時夜間学部だった早稲田大学社会科学部に入学した。比較政治学を専攻し、雄弁会では幹事長を務めた。卒業後はアメリカ合衆国のコロンビア大学に語学留学した。 帰国後、1998年の沖縄県知事選挙で当選した稲嶺惠一の秘書を務めた。2000年、沖縄県議会議員選挙に保守系無所属で那覇市選挙区から出馬し、トップ当選した。沖縄県議会で、20代の議員が誕生するのは史上初だった。当選後、自由民主党に入党した。 2003年、県議を辞職。同年11月の第43回衆議院議員総選挙に沖縄3区から保守新党の推薦を受けて無所属で出馬したが、自民党前職の嘉数知賢、社会民主党前職の東門美津子に次ぐ3位で落選した。なお、前回の第42回衆議院議員総選挙では義父の西田が無所属の会公認で出馬しており、同区は2度続けての保守分裂選挙であった。2004年の県議選では自民党の公認を受けられず、無所属での出馬を余儀なくされたが、再び那覇市選挙区でトップ当選。当選後、自民党に復党した。 2008年、自民党沖縄県第1選挙区支部は次期衆議院議員総選挙で、沖縄1区に國場を擁立する方針を決定する。自民党は自公連立政権下での選挙協力により、2000年の第42回衆議院議員総選挙から沖縄1区に公認候補を立てず、公明党の白保台一に譲っていたが、白保が2005年の第44回衆議院議員総選挙で下地幹郎に敗れて落選したため、独自候補の擁立を模索していた。そのため國場は、2008年の県議選への立候補を見送った。白保は当初、返り咲きに意欲を見せていたが、同年8月に引退を表明し、公明党は國場を推薦した。しかし、2009年の第45回衆議院議員総選挙では国民新党前職の下地幹郎に敗れ、比例復活も出来ず落選した。なお、下地は國場組に次ぐ県下2位のゼネコン「大米建設」創業者の二男である。 落選後も県議には復帰せず、2012年の第46回衆議院議員総選挙に再び沖縄1区から自民党公認で出馬。「沖縄復帰日の5月15日を国民の休日(主権回復記念日)にする」「日米地位協定の改定」「米軍普天間基地の県外移設」等を公約に掲げ、現職の閣僚である国民新党幹事長の下地を破り、当選した。 2014年の第47回衆議院議員総選挙では、沖縄1区で日本共産党の赤嶺政賢に敗れたが、比例九州ブロックにて復活し、再選。2015年5月、歴史修正主義的なナショナリズムを排除した保守を目指し、戦後70年の日本の歩みを検証する勉強会「過去を学び“分厚い保守政治”を目指す若手議員の会」の立ち上げに参加し、國場、武井俊輔、石崎徹の3人の衆議院議員(いずれも当選2回)が共同代表世話人に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「國場幸之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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