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皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)は、明治時代初期の復古体制による神道政策として、日本固有の徳性と国体を講明するため東京に設けた半官半民の国家機関の一つである。 ==概要== 明治政府の神道政策の一環として、神道の宣教、古典(国典)研究と神官を養成する復古のための神職養成機関である。皇典講究所を本所(中央)とし、地方に分所を設け、受講者に神職の資格を与えた。やがて、当時としては近代的な組織として財団法人(公益法人)へと発展する。 明治元年(1867年)に大教宣布の詔が発布され、明治9年(1876年)には神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成に力を注いだ新政府であったが、1875年(明治8年)11月に信教の自由保障の口達が発せられ、教導職廃止の運動はしだいに激しくなり、教派独立の気運が強くなった。こうして政教分離への動きが活発になり、神官については明治15年(1882年)1月、その他については明治17年(1884年)8月、それぞれ教導職が廃止された。それに伴い神道事務局の中では、旧典練習所をより発展させた機関を設置する必要があるとの考えが強くなっていた〔。明治10年(1877年)頃、文明開化最中の時勢で、大教宣布の不振、これに続く祭神論争によって、政府内から日本の古典・礼式を探究する教育機関設立の要望がされると、明治15年(1882年)8月23日、天皇の信頼(聖旨)を得ていた有栖川宮幟仁親王が総裁に就任し、有栖川宮から令旨が奉じられた山田顕義ら内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者が『専ら国典を講究するため』として、同年11月4日、国学を講究する機関が飯田町に開黌された。設立後も事業の一環として、明治21年(1888年)12月から毎週一回斯道の碩学を招聘して公開講義を開催し、これを編集して明治22年(1889年)2月より「皇典講究所講演」を発刊した。明治23年(1890年)には「古事類苑」の編纂事業が行われた。また、「延喜式」でも編纂事業は行われ、昭和6年(1931年)には延喜式撰上1,000年を記念して「校訂延喜式」が刊行された。特に神道事務局生徒寮を基盤として創立された本講究所は、一貫して祝詞研究に力を入れ、内務省の委託を受けて神官・神職の養成を行ったほか、皇典講究所・國學院大學出版部を通して、神官資格試験のための参考書を多く刊行した。 皇典研究・神職養成機関は、「神道は宗教にあらず国家の祭祀である」とし、「論理をもつ国家神道体制」への転換の際に設置された。 明治14年(1881年)、神道界を二分した祭神論争が勅裁により終結すると、内務省の内部に神道界を再編しようと模索する動きが出てきた。この年10月、内務卿に就任した山田は、祭神論争の反省を踏まえ、政教分離思想を取り入れた純粋な国典研究と、神官養成を目的とした皇典講究所の設立を認可した〔。 同年、御下賜金を財源に、麹町区飯田町(現千代田区)の邸宅を買収して行なわれた。有栖川宮神道総裁が、所の総裁を兼ねられ、副総裁には元老院議官岩下方平氏が任ぜられた。 当時、山田顕義は参議兼内務卿であったが、吉田松陰や大叔父村田清風(萩藩の藩政改革者)の思想を受け継ぎ、政府首脳部の中でも神道や神社に対する尊崇の念がとりわけ強く、前任の内務卿松方正義や神道副総裁岩下方平らとはかって、皇典講究所設立にも積極的に関わっていた。 山田は発足以降もその運営を賛助しており、総裁有栖川宮幟仁親王が逝去すると、後任として、設立・発展に尽力した山田を、所長として迎えることにした〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「皇典講究所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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