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国安氏(くにやすし)は日本の武家のひとつ。 == 源姓 佐竹氏一門山入氏流 国安氏 == 常陸国久慈郡国安邑〔国安村、茨城県山田村国安、水府村国安、現:常陸太田市国安町要害山。松平村(松平町)の北隣〕発祥。国安(山入)城主。同地は山入とも称し、城は山入城ともいった〔山入城 , 山入城 , 山入城 , 山入城 〕。 本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源頼義の三男 新羅三郎義光を祖とする常陸源氏 佐竹氏の庶流 山入氏の流れ。常陸守護職 佐竹常陸介貞義の七男 佐竹刑部大輔師義を祖とし、室町幕府において足利将軍家直属の軍団である京都扶持衆を務めた山入氏の系譜をひく〔杉本文彦編『日本の姓氏 大総鑑』(日正出版、1997年)503頁。〕。家紋は丸に違い鷹の羽〔日本家紋研究会編『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県北部地方』(日本家紋研究会、2001年)17頁参照。〕。 本宗の佐竹氏からすれば庶流の位置付けであるが、きわめて嫡流に近い家系である。また、山入氏は初代 師義が足利尊氏の室町幕府樹立に際し、その部将として随行し、播磨国で討ち死にした関係から子孫である山入氏はじめ国安氏、高柿氏、松平氏、小田野氏は幕府から厚遇されたという。山入氏の身分も他の佐竹庶流と異なり、幕府直属の武家として独立性を保っており、山入氏の四代 山入祐義は常陸守護職にも補せられた程でその家格も高かった〔『佐竹系図』によれば「貞義七子師義 久慈郡山入郷より始起こる 掃部助 刑部大輔 久慈郡国安高館にあり、その地山谷の間にあるを以て人呼んで山入と因うて氏となす 尊氏に従って歴戦功あり、その鎮西にあり豊後鞴浜に戦いて天龍寺を落とす時に従軍す 正平七年 師義 尊氏に従って畠山国清を討ち播磨小清水雀松原等諸々に戦ふ 尊氏利非ず攝津松岡城に走る 敵復り攻む、師義拒戦して死す 尊氏其の子孫を遇するに特に厚し、 国安、高柿、松平、小田野、小里郷陸奥依上保等を與ふ」とある。大内政之介著『山入一揆と佐竹氏』(筑波書林、1991年)5頁参照。〕。しかし、佐竹宗家が藤姓上杉氏から義人を養子とすると、異姓の養子に反対する山入氏の勢力は宗家に反旗を翻し、約百年に及ぶ戦乱が繰り広げられることになった。国安氏も山入氏の与党として佐竹宗家との合戦に臨み、文亀2年(1505年)8月15日の東金砂山の合戦で山入義藤方として討ち死にした者の中に松平上総介、高柿源次郎左衛門ら山入流の係塁及び同じ佐竹一門の真崎孫六入道、袋田筑前三郎らとともに国安周防入道の名が見える〔大内政之介前掲書(筑波書林、1991年)57頁参照。〕。しかし、山入義藤の子 氏義、義盛が佐竹義舜に攻め滅ぼされたことで国安氏は佐竹宗家に帰順、その家臣となった。戦国時代の佐竹家中の衆についての記録にも国安左重允の名が見え、佐竹一門から家臣として組み込まれたことがうかがえる〔大内政之介前掲書(筑波書林、1991年) 106頁参照。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国安氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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