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シュタージ()は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の秘密警察・諜報機関である国家保安省(;、略号:)の通称である。英語の「」に相当するドイツ語の「」の太文字部分を読んで 「」 と呼ばれた。徹底した監視態勢で東ドイツ国民を震え上がらせるばかりでなく、西ドイツにもスパイを送り込み、東西両ドイツ国民から恐れられた。全盛期には対人口比で同じドイツ帝国(ナチス政権下)のゲシュタポ、ソ連のKGBをしのぐ監視網を敷いた。 == 歴史 == 1947年8月16日、東ドイツのソ連占領軍当局は「第5委員部(K-5)」(秘密警察組織)を創設した。その委員(大臣に相当)には、を、副委員にはエーリッヒ・ミールケを任命した。形式上、K-5は人民警察刑事局に従属した。 東ドイツでは、1949年のドイツ民主共和国建国以前からソ連軍軍政下に自治組織である(DWK)があり、「人民警察」も組織されていた。この「人民警察」は「兵営人民警察」を経て国家人民軍となった。また、K-5やシュタージの創設にはナチス政権時代の秘密警察のゲシュタポや国家保安本部第III局と第VI局で国内諜報や国外諜報を担当した親衛隊情報部 (SD) の出身者が相当数採用されたとの説もあるが、真偽や詳細については不明な部分がほとんどである。 1949年のドイツ民主共和国建国後、1950年に国家保安省が創設された。国家保安相にはツァイサーが、次官はミールケが任命された。1953年、ミールケはベルリン暴動と関連して、ツァイサーを弾劾し、ツァイサーは解任された。国家保安省の地位は低下し、内務省に従属する庁扱いとなった。内務省国家保安局長には、が、副局長にはミールケが任命された。 1955年、シュタージは省の地位を取り戻した。ミールケは、ヴァルター・ウルブリヒト支持の際、ヴォルヴェーバーを弾劾した。1957年11月1日、ヴォルヴェーバーは、健康上の理由で辞任し、ミールケが国家保安相となった。ミールケの下で、シュタージにはソ連国家保安委員会 (KGB)と同様の軍隊式の階級制度および制服が導入され、ミールケ自身は少将となった(1959年に中将)。 1958年、シュタージに対外諜報を担当する「A」総局 (HV A)が創設された。「A」とは偵察を意味するドイツ語の「Aufklärung」の頭文字である。「A」総局長兼国家保安省次官には、マルクス・ヴォルフ少将が任命された。 1971年、シュタージの策動の下ウルブリヒトは解任され、エーリッヒ・ホーネッカーと交代した。ホーネッカーは感謝の印に、ミールケをドイツ社会主義統一党政治局員候補にした。 1986年、ヴォルフが辞任。ヴォルフの後任には、ヴェルナー・グロスマンが任命された。当時「A」局では4,126人の職員が働いており、各国に4,500人以上のエージェントを有していた。 1989年11月、ベルリンの壁が崩壊し、シュタージは国家保安局に改称した。同年12月、同局は解散された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シュタージ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Stasi 」があります。 スポンサード リンク
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