|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 国 : [くに] 【名詞】 1. country ・ 国家 : [こっか] 【名詞】 1. state 2. country 3. nation ・ 家 : [いえ, け] 1. (suf) house 2. family ・ 社 : [やしろ] (n) shrine (usually Shinto) ・ 社会 : [しゃかい] 【名詞】 1. society 2. public ・ 社会主義 : [しゃかいしゅぎ] 【名詞】 1. socialism ・ 会 : [かい] 1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club ・ 会主 : [かいしゅ] (n) sponsor of a meeting ・ 主 : [ぬし, おも] 【名詞】 1. owner 2. master 3. lover 4. god ・ 主義 : [しゅぎ] 【名詞】 1. doctrine 2. rule 3. principle ・ 義 : [ぎ] 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor ・ 自由 : [じゆう] 1. (adj-na,exp,n) freedom 2. liberty 3. as it pleases you ・ 由 : [よし] 【名詞】 1. reason 2. significance 3. cause ・ 運 : [うん] 【名詞】 1. fortune 2. luck ・ 動 : [どう] 【名詞】 1. motion 2. change 3. confusion
国家社会主義自由運動(Nationalsozialistische Freiheitsbewegung,略称NSFB)は、ヴァイマル共和政期のドイツの政党。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が前年に起こしたミュンヘン一揆のために禁止されていた1924年に旧ナチ党勢力とドイツ民族自由党が合同して設立した政党である。エーリヒ・ルーデンドルフ、アルブレヒト・フォン・グラーフェ、グレゴール・シュトラッサー、エルンスト・レームなどが指導した。全ての旧ナチ党勢力が参加したわけではなく、大ドイツ民族共同体や北ドイツ執行部といった旧ナチ党勢力は国家社会主義自由運動と敵対した。獄中のアドルフ・ヒトラーは党内争いに巻き込まれるのを避けるため、どの勢力を支持するとも明言しなかった。1924年末にヒトラーが出獄し、1925年2月にナチ党を再建すると解散した。 == 歴史 == === 創設までの経緯 === 1923年11月8日から9日にかけてナチ党党首アドルフ・ヒトラー、第一次世界大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍、帝国戦闘旗団(Bund Reichskriegsflagge)団長エルンスト・レームらは、前年にイタリアで成功したベニート・ムッソリーニのローマ進軍をまねて、バイエルン州を押さえた後に更にベルリンへと進軍しようというミュンヘン一揆を起こした。しかしバイエルン州警察の銃撃を受けて一揆は失敗〔阿部、103-105頁〕。ナチ党は解散させられ、ヒトラーたちは勾留された。 勾留されたヒトラーはアルフレート・ローゼンベルクを自らの代理に任じ、自分に代わって党を再建することを命じた。ローゼンベルクは「大ドイツ民族共同体」を組織したが、ナチ党の偽装組織として摘発を受けないように自らは代表とはならなかった〔桧山、83頁〕。大ドイツ民族共同体はヘルマン・エッサーとユリウス・シュトライヒャーを取り込み〔モムゼン、290頁〕、後に彼らによって指導されることとなる。他にもナチ党の偽装組織として様々な政党・団体が生まれていたが、1924年4月6日に予定されるバイエルン州議会選挙のために一つになる必要があった。1924年1月6日にバンベルクで大ドイツ民族共同体やドイツ労働者党など様々な旧ナチ党勢力が集まり、来るべきバイエルン州議会選挙には「民族主義ブロック」として合同して臨むことが決定した〔桧山、84頁〕。 またローゼンベルクは北ドイツに力を持つドイツ民族自由党の党首アルブレヒト・フォン・グラーフェ(Albrecht von Graefe)と1924年2月24日に会談し、バイエルン州議会選挙の後に来るべき5月4日の国会選挙で大ドイツ民族共同体と民族自由党が相互協力することを協定した。この両党の国会選挙協力体制を「民族主義=社会主義ブロック」と名付けた〔桧山、84頁〕。 1924年4月1日にミュンヘン一揆指導者たちの裁判の判決が下り、ヒトラーは5年の懲役刑(ただし執行6ヵ月後に仮釈放し、以降は保護観察期間に切り替えることも判決文に盛り込まれる)、レームは1年3ヶ月の懲役(ただし判決後すぐに仮釈放)、ルーデンドルフ将軍は無罪となった〔阿部、110頁〕。この裁判でナチ党が話題になっていたため、直後の4月6日に行われたバイエルン州議会選挙で民族主義ブロックは51万2300票(得票率17.1%)という大量得票を得た。バイエルン人民党とドイツ社会民主党に次ぐ第三党となった〔プリダム、23頁〕〔桧山、84頁〕。 民族主義ブロックは続いて5月4日の国会選挙での勝利を目指してフォン・グラーフェ率いるドイツ民族自由党との協力関係を密にした(「民族主義=社会主義ブロック」)。ドイツ民族自由党は釈放されたルーデンドルフ将軍を担ぐことに成功し、彼の名声を使って民族主義=社会主義ブロックの中で指導的立場を得ようとしていた〔モムゼン、290頁〕〔桧山、85頁〕。5月4日の国会選挙で民族主義=社会主義ブロックは191万8000票(得票率6.6%を)獲得し、32議席を獲得するという上々の成績をあげた〔桧山、85頁〕〔プリダム、38頁〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国家社会主義自由運動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|