翻訳と辞書
Words near each other
・ 国松孝次
・ 国松彰
・ 国松慶輝
・ 国松明日香
・ 国松竜次
・ 国松達也
・ 国松長官狙撃事件
・ 国枝すみれ
・ 国枝利通
・ 国枝博
国枝史郎
・ 国枝孝弘
・ 国枝強
・ 国枝慎吾
・ 国枝政晃
・ 国枝昌樹
・ 国枝春恵
・ 国枝栄
・ 国枝桃子
・ 国枝氏


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

国枝史郎 : ミニ英和和英辞書
国枝史郎[くにえだ しろう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くに]
 【名詞】 1. country 

国枝史郎 : ウィキペディア日本語版
国枝史郎[くにえだ しろう]
国枝 史郎(くにえだ しろう、1887年10月4日 - 1943年4月8日)は日本小説家。怪奇・幻想・耽美的な伝奇小説の書き手。他に探偵小説戯曲なども執筆。
== 経歴 ==
長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)に、県庁・郡役所勤めの父の四男に生まれる。父の仕事の都合で小学校を点々とし、旧制長野中学に入学、剣道に熱中する。しかし蛮勇が元で放校処分を受け、海軍士官の兄により東京に引き取られ、郁文館中学校入学。
1908年(明治41年)中学卒業後、海軍兵学校を受験するが失敗し、早稲田大学英文科に入学。詩や演劇などの創作活動に熱中し、『文庫』『三田文学』『太陽』などに小説を寄稿、大学の先輩小川未明の主宰した青鳥会にも参加。1910年にフォン・ショルツ、ダヌンツィオワイルドメーテルリンクなどの影響を受けた戯曲集『レモンの花の咲く丘へ』を自費出版し、高い評価を受けた。1911年頃から演劇活動に打ち込み、東京俳優座や川村花菱の活動に参加、また『劇と詩』『早稲田文学』に詩や戯曲を執筆した。
1914年(大正3年)に大学を中退して大阪朝日新聞に入社し、新聞記者となる。1917年、松竹座に入社、同社専属の脚本家となる。この年、第二戯曲集『黒い外套の男』を自費出版。
1920年バセドウ病を患い、松竹座を退社。茅野の実家に戻る。1921年木曽福島町に移住、この頃から大衆文学の執筆を始め、『講談倶楽部』『講談雑誌』『少年倶楽部』などに執筆。1922年 岐阜県中津川に移住するが、すぐに徳島県相生町に移る。青い鳥会のメンバーだった生田蝶介の求めで9月から『講談雑誌』誌上で『蔦葛木曽桟』の連載を開始、一躍人気作家となる。1923年に市川すゑと結婚。同年『新趣味』に探偵小説「砂漠の古都』を、イー・ドム・ムニエ作の翻訳として発表。翌年『文芸倶楽部』に「八ヶ嶽の魔神」を連載。この頃、鎌倉彦郎宮川茅野雄西井菊次郎のペンネームも用いた。翌年には『苦楽』で「神州纐纈城」、『サンデー毎日』で「名人地獄」も連載開始し、4本の長編連載をかかえることになった。また白井喬二の「二十一日会」に参加、1926年創刊された『大衆文芸』にも執筆した。
1927年(昭和2年)小酒井不木らとともに合作組合「耽奇社」を結成、「飛機脾睨」「白頭の巨人」などに参加、『講談倶楽部』に「神秘昆虫館」、『文藝春秋』に「暁の鐘は西北より」執筆。
1929年愛知県知多市新舞子に転居。1935年頃から現代小説を書き始めるが成功せず、ダンス教習所や喫茶店などの経営に手を染め、執筆からは遠ざかる。1943年喉頭癌で死亡。茅野市の宗湖寺に葬られる。
1968年『神州纐纈城』復刊により再評価され、三島由紀夫にも「文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性に驚いた」(「小説とは何か」1972年)と評される。またこれに続く小栗虫太郎江戸川乱歩夢野久作久生十蘭など怪奇幻想ものブームのさきがけとなった〔八木昇「<大ロマン・シリーズ>回想」(『幻想文学』30号、1990年)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「国枝史郎」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.