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國枝 昌樹(くにえだ まさき、1946年 - )は、日本の外交官。ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部公使などを経て、駐カメルーン特命全権大使、駐シリア特命全権大使を務めた。 == 人物・経歴 == 神奈川県出身。栄光学園中学校・高等学校を経て、1970年に一橋大学経済学部を卒業し、外務省入省。その後フランスに留学〔 国枝昌樹「著者略歴」『シリア アサド政権の40年史』 (平凡社新書) 〕。妻は留学中にパリで知り合ったスイス人〔「【著者に訊け】元シリア大使・国枝昌樹『イスラム国の正体』」 週刊ポスト2015年2月20日号〕〔「2015/01/22 「今は、政府の交渉を全面的にバックアップすべき時」 イスラム国邦人殺害予告事件について、岩上安身が元在シリア大使・国枝昌樹氏に聞く 」 IWJ Independent Web Journal〕。後年、かつて妻の実家の近くに祖父母夫婦が居住しており、神学者カール・バルトを通じて交友関係にあったことが、祖父から指導を受けたことがある神学者滝沢克己からの手紙で判明した。なお妻の祖父はバルトとの約束で、2人で娘に同じ名前を付け、さらに妻にも同じ名前を付けたという〔「「イスラム国の正体」著者で元シリア大使の国枝昌樹さんインタビュー」 GIGAZINE2015年03月20日〕。 フランス語圏、中東での勤務が長く〔「もう日本にも潜んでいる? イスラム過激派「新世代」の脅威」 朝日新聞出版dot.2015/1/13〕、1978年在エジプト日本国大使館一等書記官、1989年在イラク日本国大使館参事官、1991年在ヨルダン日本国大使館参事官、1991年ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部公使。1990年の湾岸危機で日本人約240人が人質となった際には、在イラク大使館公使参事官としてイラク外務省アジア局長や秘密警察との間での解放交渉等にあたった。 1997年からホーチミン総領事。総領事時代の知り合いが、のちにベトナム国家主席となり、外交官退官後も交流が続いているという。在ベルギー日本国大使館公使を経て、2001年から社会福祉・医療事業団常任顧問。2002年駐カメルーン特命全権大使兼駐チャド特命全権大使兼駐中央アフリカ共和国特命全権大使に就任。カメルーンのポリカルプ・アバ・アバ経済・財務大臣との間で、100億1102万円の円借款について債務免除による債務救済措置を行う書簡の交換を行った〔カメルーンに対する債務救済措置(債務免除方式)について 外務省平成18年10月26日〕。また、近所にいた小児麻痺のホームレスと知り合いになり、自立のために露店を出すことに対し個人的な援助を行った〔「「イスラム国の正体」著者で元シリア大使の国枝昌樹さんインタビュー」 GIGAZINE2015年03月20日〕。 2006年駐シリア特命全権大使。シリア大使在任中は公安警察による尾行を受けるなどしたが、逆に道案内を頼むなどして身辺警護に利用したという。2010年には、シリアのアーミル・ホスニ・ルトゥフィ国家企画庁長官との間で、9億8500万円を限度とする無償資金協力の協定を締結〔「一般無償資金協力「第2次地方都市廃棄物処理機材整備計画」交換公文等の署名」 外務省平成22年3月3日〕。同年退官。 著書などではアメリカによる中東政策に批判的な立場を取ることが多い〔「2013/09/06 アルジャジーラの”偏向” 元シリア大使が重要証言 ~岩上安身による国枝昌樹氏インタビュー 」 IWJ Independent Web Journal2013/09/06〕。またISILによる日本人拘束事件に関し、交渉中の日本政府を信頼する前提として、より真剣な事後検証が必要であるとした〔「「イスラム国の正体」著者で元シリア大使の国枝昌樹さんインタビュー」 GIGAZINE2015年03月20日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国枝昌樹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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