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国民公会 : ミニ英和和英辞書
国民公会[こくみんこうかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くに]
 【名詞】 1. country 
国民 : [こくみん]
 【名詞】 1. national 2. people 3. citizen 
: [たみ]
 【名詞】 1. nation 2. people 
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate
公会 : [こうかい]
 (n) public meeting
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 

国民公会 : ウィキペディア日本語版
国民公会[こくみんこうかい]

国民公会(こくみんこうかい、)は、フランス革命期の1792年9月20日から1795年10月26日〔共和暦IV年霧月4日〕まで存在したフランス一院制立法府で、諸委員会を通じて執行権をも握っていたので、同時に行政府の役割も担った革命政治の中央機関である。
1792年パリ市民がテュイルリー宮殿を襲撃した8月10日事件で王政が打倒されたことで、立法議会は法令を発してルイ16世王権を停止した。誕生を予告された新議会はロベスピエールの事前の提案で「国民公会」という名称に決まり、選挙もフランス革命中では唯一となる男子普通選挙〔ただし間接選挙である〕で実施された。
国民公会は、会期2日目の9月21日に共和国宣言を行って第一共和政に移行し、王政は廃止された。ルイ16世は国王裁判にかけられて処刑された。1年後に革命暦が創設されたとき、振り返って1792年9月22日が共和元年元日と定められた。当初は前憲法の修正を目的として召集されたが、フランス革命戦争ヴァンデの反乱などの内戦という危機的状況にあって、超法規的体制を維持する必要が出て、人民主権を体現する革命独裁の権力の根源として顕在化した。
国民公会は、1793年6月2日のジロンド派追放と、1794年7月27日テルミドールのクーデターとを境に3分される。最初がジロンド派山岳派の抗争の時期、次が山岳派独裁の時期で、最後がテルミドール派〔一般的には の転向者の極右化したグループ(タリアンやフレロンなど)で、反動政策を進めたという捉え方だが、歴史家の中にはテルミドール反動をジロンド派の復活による報復であったと定義するものもいる。(前川説)〕が反動政治を行った時期である。クーデター以後は末期国民公会などとも言い、行政府は解散同日に総裁政府に、立法府も新たに誕生する二院制議会〔元老会五百人会〕に、それぞれ引き継がれた。さらに後、王政復古となると、元国民公会議員の455名が国王弑逆者として認定されて追放された。

== 選挙 ==

1792年8月11日、立法議会は、国民公会の選挙規定を発布した。国民を能動的市民と受動的市民に分けた従来の選挙制限〔納税額を基準にした財産制限で、ロベスピエールが憲法制定議会の審議時点から反対してきたもの。マール・ダルジャン制度()という〕は廃止され、年齢も引き下げられた〔1791年憲法での投票権は25歳以上〕。旧憲法が禁止していた帰化外国人にも門戸が開かれ、無産市民も等しく投票権を持てたが、従来通り、権利は男性だけで、当時二級市民と考えられていた奉公人や召使いも除外された〔買収されやすいという理由である〕。このように現代とは異なる例外はあるが、一般にフランスで初めて普通選挙の原則で行われた選挙であったと認識されている。
選挙の方法については立法議会の時とほぼ同じ間接選挙であった。すなわち一般有権者がまず第一次集会で選挙人を選出し、次に選挙人が選挙人集会で集まって議員を選出するという、二段階選挙方式である。ただしこの従来通りの方法には反対も多く、第一次集会による直接選挙を望む声も多かった。そこでロベスピエールの主張により、選挙会での選挙人の選択は第一次集会の承認を得る必要があるという補足が付け加えられた。
パリの選挙は、8月10日事件の勝利者であるが主導した。自市市会は8月12日王党派系新聞を全て発禁処分とし、8月17日には王党派支持者名簿なるものも公開して彼らに投票しないように仕向けて、あからさまに彼らの選挙運動を妨害した。他方で共和派系新聞は無料で配布された。政治情勢を反映して全国的にも共和運動が盛んで、ジャコバン派内部の派閥争いは選挙期間は休止され、短い期間であったが愛国的な団結があった。
法令によって第一次集会は8月26日から、選挙人集会は9月2日から開催されることが決まっていた。投票は用紙ではなく指名点呼で行われた。
ところが折角、普通選挙となったにも関わらず、選挙自体は振るわなかった。貧民である日雇労働者は日給を失うのを嫌って投票所に行かず、職人など中産階級の労働者も一部の例外的な選挙区を除いて投票することは希だった。彼らはもっと身近なコミューン選挙には関心を持ったが、国政選挙にはあまり関心がなかったからである。王党派やフイヤン派、元貴族は、猜疑の目に晒され、槍玉に挙がるの恐れて投票を辞退した。登録された約700万人の有権者は、数の上では立法議会選挙時の2倍であったが、このうちで投票したのは1割程度の70万人に過ぎなかったと考えられている。結局のところ、従来通りにブルジョワ階級と地主層が選挙人集会を仕切り、ほとんど至る所で多数を占めた。彼らの手で王党派と極左分子の両方が弾き出された。労働者階層で議員に選ばれたものは2名のみである。
選挙の結果は、8月10日事件で妥協的態度をとって民衆の支持を失っていたジロンド派を抑えて山岳派が躍進し、残りはどちらでもない中道的な議員が新議会の多数を占めることになった〔議席数の一例としては、山岳派(200):ジロンド派(160):平原派(389)。ただしこの数字は正確なものではない。特に「ジロンド派」は後世の歴史家の後付けの名称・グループであるため、判定が困難で、オラールはジロンド派を165、ショーミエは136、パトリックは176とする。約1年後、ジロンド派が追放がされたときに名指しされた議員の数は140であった〕。
選挙が概ね山岳派の勝利という結果となったことで、前述の第一次集会での議員審査という話は反故になった。これはもともとジロンド派の大量当選を阻むための措置だったのである。しかしこの態度の豹変に直接民主制支持者が多いパリの地区コミューンは怒って抗議した。これを宥めたのが、ジャーナリストでありコミューン総代補佐のエベールであった。第一線の活動家が国民公会議員となって転出していった後で、彼のような二線級の活動家が民衆の間で浸透して台頭していった。
*;選挙権
1年以上フランスに居住して自分の収入で生活する勤労者で、奉公人や召使いの身分ではない、21歳以上のすべてのフランス人は、能動的市民と同じように第一次集会で投票することを認める。(第2条)
*;被選挙権
選挙人および議員になる資格は、上記の選挙権を持ち、かつ25歳以上のすべてのフランス人に認める。(第3条)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「国民公会」の詳細全文を読む




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