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国民英学会(こくみんえいがくかい)は、明治・大正期に著名だった日本の私塾、英語学校。単なる洋学校ではなく、旧制中学校から旧制専門学校相当の教育機関の要素があった〔明治後期における旧制高等学校受験生と予備校 〕。 == 概要 == 1888年(明治21年)2月、慶應義塾の英語教師フレデリック・イーストレイク(イーストレーキ)と英学者磯辺弥一郎によって東京市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)に設立。当時、慶應義塾の人々が力を入れて推進していたのは、医学や英学であって実用英語ではなかった〔前山隆 風狂の記者:ブラジルの新聞人三浦鑿の生涯 P,448〕。これに不足を感じたイーストレーキら一部の慶應義塾の外国人教員らが慶應義塾大学と兼任する形で創立、やがて独立した。 舎主は磯辺弥一郎で、初めは授業料も無く月謝も極めて安かった。苦学生のための夜間部も開校し、1906年(明治39年)には別科の中に数理化を設立するまでに至った。 第一高等学校やナンバースクール、慶應義塾大学、学習院等を筆頭とする正規の学歴コースに乗れない生徒たちを対象とする学校であるにも拘らず、講師陣には高名な英語学者であるアーサー・ロイド(慶應義塾大学教授)、斎藤秀三郎(第一高等学校教授)、吉岡哲太郎(理学博士)、内藤明延、岡倉由三郎を迎えるなど講義の質が高く、人気を集めた。 しかし、やがて磯辺と反目した斎藤は、1896年(明治29年)10月、国民英学会から分裂する形で、同じ神田錦町3丁目に正則英語学校を開校し、校長に就任。斎藤みずから教鞭を執った他、上田敏、戸川秋骨、フレデリック・イーストレイクといった名講師を揃えた。このため国民英学会は正則に押されて勢いをそがれることとなったが、その後の大正・昭和初期にかけても学問機関として存続し、1945年ごろまで活動していたことが確認できる〔『朝日新聞』1945年1月7日付け朝刊2頁「(広告)国民英学会」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国民英学会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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