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国王一座(こくおういちざ、The King's Men)は、ウィリアム・シェイクスピアが座付き劇作家として長らく在籍していたことで知られるイギリスの劇団である。女王エリザベス1世の治世(1558年 - 1603年)においては「宮内大臣一座」の名で活動していたが、1603年に新国王ジェームズ1世が即位して劇団のパトロンとなったのをきっかけに国王一座と改称した。 1603年5月19日に交付された国王一座の設立勅許状では、「ローレンス・フレッチャー (Lawrence Fletcher) 、ウィリアム・シェイクスピア、リチャード・バーベッジ、オーガスティン・フィリップス (Augustine Phillips) 、ジョン・ヘミングス (John Heminges) 、 ヘンリー・コンデル (Henry Condell) 、 ウィリアム・スライ (William Sly) 、 ロバート・アーミン (Robert Armin) 、リチャード・カウリー (Richard Cowley) 、その他の同僚たち」といった順番に俳優たちの名が列記されている〔当時の演劇界は年功序列の厳しい世界だったことから、勅許におけるフレッチャー、シェイクスピア、バーベッジという順序には劇団内の力関係なども反映されていると考えるべきであり、筆頭にあげられているフレッチャーは相当重要な人物だったと推測される。したがってフレッチャーの名がファースト・フォリオ冒頭の「主要な俳優」一覧に見られないのは非常に奇妙なことである。そもそも現存するさまざまな戯曲の上演記録にもフレッチャーの名が記録されたものは少なく、役者としての活動歴も定かではない。これはフレッチャーがもともと王太子時代のジェームズ1世から贔屓にされていたことから、宮内大臣一座が新国王の庇護を受け国王一座へ改称するさいに、以前から国王の気に入られている人物を入れておいた方が手続きがスムーズに進むのではないかという政治的判断から、名前だけ借りてこられたためのではないかと推測されている。〕。名をあげられた9人は宮内官待遇となっており、1604年3月15日には、国王戴冠式用の正装を仕立てるために4ヤード半の赤布が9人全員に供与されている。 == 1603年 - 1610年 == 国王一座は最初の冬季となる1603年12月から1604年2月(一般の公設劇場は屋根のない屋外劇場だったため雨天や真冬には上演できず、公演はもっぱら夏季に行なわれ、冬季は宮廷など屋内劇場での公演が中心だった)に8回の宮廷公演を行なっている。2度目の冬季(1604年11月から1605年2月)には11回の宮廷公演があり、シェイクスピアの戯曲7作(『ヴェニスの商人』は2回上演された)やベン・ジョンソンの戯曲2作などが上演された。これはエリザベス女王時代に比べて2倍近い公演回数である〔この仕事量の増加は国王一座だけに見られた現象ではない。ジェームズ朝時代には、ロンドンの劇団すべてが宮廷公演に召喚される機会を増やしている。〕。そのため国王一座は新たな人手が必要となり、1604年には株主の人数も8人ないし9人から11人に増えている(当時の劇団においては俳優や座付き作家が同時に株主を兼ねる場合が多かった)。新しい株主の中には、ジョン・ローウィンやアレクサンダー・クックといった顔触れがあった。新しいメンバーの1人サミュエル・クロスはまもなく早世したため、代わりにニコラス・トゥーリイが参加した。 1605年にはオーガスティン・フィリップスの死という事件があった。フィリップスは遺言書においてシェイクスピアやバーベッジ、その他8人の同僚と2人の見習いに財産を遺贈し、使用人にも5ポンドを遺している(フィリップスはかつての使用人でのちに俳優として大成したクリストファー・ビーストンにも遺産を譲与しているが、ビーストンが国王一座の見習いでもあったことはほぼ確実と見られている)。 1605年から1606年にかけての冬季には10回の宮廷公演があったが、1606年にはデンマーク国王の公式訪問があったため、珍しく夏季にも3回の宮廷公演が実施されている。こうした宮廷公演1回につき、支払われる報酬は10ポンドであった。この年の夏季は巡業公演も行ない、7月にはオックスフォードに滞在していたことが明らかとなっている。1606年 - 1607年の冬季宮廷公演は9回行なわれているが、このうち12月26日の公演では『リア王』が演目として取り上げられている(シェイクスピア生前の上演記録としては唯一のものである)。次の1607年 - 1608年冬季には13回もの宮廷公演が行なわれた。 1609年7月から12月のあいだは、ペストの流行によりロンドンの劇場が閉鎖されている。この間、国王一座は地方へ巡業に出ており、10月下旬にはコヴェントリーに滞在していた記録がある。この年の8月、バーベッジ家の所有となっていたブラックフライヤーズ座(ジェームズ・バーベッジが購入し、その息子で国王一座の主力俳優でもあったリチャードが受け継いだ)の株式が分担所有されることとなり、国王一座のメンバー5人(シェイクスピア、リチャード・バーベッジ、ヘミングス、コンデル、スライ)とその他2人(リチャード・バーベッジの兄カスバート、劇場支配人ヘンリー・エヴァンズの代理人トマス・エヴァンズ)で7等分された。スライがその後まもなく死去したため、その所有株は他の6人で分けられることとなった。 こうしてブラックフライヤーズ座は事実上国王一座の所有となり、グローブ座と並ぶ国王一座の活動拠点となった。これは国王一座にとって非常に大きな意味をもっていた。野外劇場であったグローブ座と異なり、屋内劇場であったブラックフライヤーズ座では天候に関わりなく上演できたためである。ブラックフライヤーズ座はステージを含めて20メートル×14メートルの大きさであったと考えられている。屋内劇場の短所は、当時の建築技術上の制限から野外劇場ほど大きなものを造れないことで、グローブ座の最大収容員数が2500 - 3000人であったのに対して、ブラックフライヤーズ座は数百人が限度であった〔桝席と桟敷席の配置次第では1000人以上は入れたのではないかと推測されることもあるが、20メートル×14メートルの大きさに1000人という数字には信憑性がなく、ブラックフライヤーズ座は「600人以上収容することはできなかった」とするアンドルー・ガーの主張が有力である。Gurr, ''"Shakespearean Stage"'' , p. 117.〕。それでもブラックフライヤーズ座の入場料はグローブ座の5 - 6倍ほども高価なものだった。グローブ座の入場料は1ペニーないし6ペンスであったが、ブラックフライヤーズ座は6ペンスないし2シリング6ペンスであり(1シリングは12ペンス)、前者の最高級席が後者の最も安い席と同じ額なのである〔Gurr, ''"Shakespearean Stage"'' , p. 12.〕。したがってグローブ座に加えてブラックフライヤーズ座での上演を行なうようになってから、国王一座の収入は公設劇場からだけでも2倍以上に増えているのである(さらに宮廷公演も増えていたことは上述の通りである)。 後述するように1613年にはグローブ座焼失という災難が起きているが、萱葺き屋根をタイル張りに替えて再建するのに要した莫大な費用をまかなうことができたのも、こうして着実に収入を増やしていたことが幸いしている。本拠地となる劇場を2館もっていたために台本や衣装などのすべてを失わずにすんだことも大きく、1621年12月にやはり火災で活動拠点のフォーチュン座を失った海軍大臣一座がその後衰微していったこととは対照的である。 1609年には、再びペストが流行したため巡業に出ている。この年に9本の戯曲が宮廷で上演された。国王による庇護はこうした困難のともなう時期には大きな助けとなった。1603年、1608年、1609年、1610年にそれぞれペストのために公演ができなくなった国王一座へ宮廷からの特別手当が支給されている。 1610年は平穏な年で、グローブ座では『オセロー』やジョンソンの『セジェイナス』 (''"Sejanus"'') その他の作品が上演された。このころ国王一座に増員があり、チャペル・ロイヤル少年劇団出身のベテラン俳優ジョン・アンダーウッドとウィリアム・オスラーが参加することとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国王一座」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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