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国鉄60系客車(こくてつ60けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が1949年(昭和24年)から木造客車を改造して鋼製客車とした客車の形式群である〔本形式は優等列車で使用することを主目的とした二等車と三等荷物合造車であるオハニ63形→オハニ36形を除いて普通列車で使用することを主目的していたため、その点に着目すれば一般形になるが、10系以前の客車は本形式も含めて国鉄の現場では「一般形客車」「在来形客車」「旧型客車」と呼称されたものの、20系客車以降の客車との対比で使われた呼称であり、正式な呼称ではないため、10系以前の客車については特に「何形」などというような厳密な定義はしていない。〕。このグループを総称する形で鋼体化改造車(こうたいかかいぞうしゃ)とも呼ばれる。 == 製造の背景 == 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)2月25日、八高線東飯能 - 高麗川間で客車列車が脱線転覆し、184人が死亡する事故が発生した(詳しくは八高線列車脱線転覆事故を参照)。この事故は現代に至るまで、日本の鉄道事故史上における死者数第2位の大事故として記録されている。事故列車は木造客車で編成されており、構造脆弱な木造車体が転覆によって大破したことが、死者数を増大させたと考えられた。 鉄道省(国鉄の前身)が新規製造の客車を鋼製客車に切り替えたのは1927年(昭和2年)であり、八高線事故時点では既に20年以上が経過していた。しかし、この時点でもまだ国鉄保有客車数10,800両の約6割が木造客車〔この事故の約1年半後、鋼体化開始直前の1948年(昭和23年)10月の段階でさえ木造客車は総数11,323両のうち、5,924両を占めていた。〕であり、ローカル線の普通列車では木造客車が当たり前、それも古い雑形客車〔鉄道国有化前に設計・製造された、官鉄・日本鉄道・山陽鉄道・関西鉄道などから継承された種々雑多な客車群を指す(鉄道国有化後製造であっても、車両標準化以前の旧式構造を継続して1911年頃まで製造された客車も含む)。1910年以降製造の、鉄道院/鉄道省/国鉄制式形式の旧型客車を指して『雑形客車』と呼ぶのは誤り。〕さえ珍しくない状況であった〔当時の客車は優等列車には常に最新の形式が使用され、普通列車には後継車両の増備や置き換えで捻出した中堅車や経年車が充当されていた。〕。 これらの木造客車の多くは明治時代末期から大正時代末期にかけて製造されたもので、製造後最低でも20年から40年程度が経過し、全体に老朽化が進行していた。また、戦時中・戦後の酷使や資材難によって内外の荒廃は進み、木造客車の根本的な整備には鋼製客車と比較して莫大な費用がかかると試算された。 そして八高線での事故が発生したことで、早期に木造客車を全廃し鋼製客車に置き換えることが強く望まれるようになった。 だが当時は戦後の混乱期でインフレーションが進行しており、短期間のうちに鋼製客車を大量に新製して木造客車を全て取り替えることはコスト的に困難とされた。また当時の鉄道運営を管轄していた進駐軍は、車両新造許可には消極的で、度重なる車両増備の要望にも容易に応じなかった。 これらの課題の対策として、木造車の改造名目で安価に鋼製客車を製造する「鋼体化」と呼ばれる手法が取り上げられた。木造客車を構成する部材のうち、もともと鋼鉄製で流用の効く部材の台枠や台車、連結器などを再利用し、鋼製の車体のみを新製するものである。 国鉄では戦前の鉄道省時代に同様な手法で、車体の老朽化した木造電車を鋼製車体に改造する工事を大量に行った実績〔50系電車・62系電車。1934年-1944年改造。〕があり、また少数ではあったが木造客車の鋼製化工事の施工例もあった〔オハ31980・オハフ34180形およびスイテ37050形の計5両。1939・1940年改造。〕。木造電車は客車よりもドア数が多く車体強度が劣り、加減速も頻繁で老朽化が早かったのが、戦前からの早期改造着手の原因である。 戦前の木造電車改造は「鋼製化改造」と呼ばれたが、戦後の木造客車改造についてはそれと区別する目的で「鋼体化改造」と呼ばれた〔当時、鋼体化改造車の計画に携わった星晃によれば、「鋼体化」という新しい用語を発案したのは、当時の国鉄車両局の次長であった井澤克己であったという。星が1952年に雑誌記事「鋼体化客車60シリーズ」(鉄道ピクトリアルNo13 1952年8月)で著述したところでは、新語「鋼体化」は1949年4月4日の車両局での客車鋼製化工事打ち合わせ会議の席上で、在来車補修に関する用語「更新修繕」と共に新たに示された用語であった。井澤本人も、同年の「交通技術」1949年11月号(p15-17)に国鉄木造客車の老朽化対策を訴える自身の署名記事「客車鋼体(體)化」を寄稿している。「鋼体化改造」という用語は、以後、国鉄・私鉄を問わず、木造車の車体を鋼鉄製に改造することを指して一般的に使われる用語となった。〕。 膨大な改造両数となるこの計画の実現のため、国鉄では進駐軍で国鉄の運営を管轄していたCTS(Civil Transportation Section=民間輸送局)の担当者をラッシュアワーの総武本線両国駅に案内し、窓や羽目板の破損した老朽木造車に、すし詰めとなった乗客が窓から乗降している危険な現状を実見させた〔当時の総武・房総地区路線は、都心に発着する路線でも特に老朽度合いの酷い木造車が多い路線であり、それらのターミナルであった両国駅は、進駐軍側担当者への「警鐘」にもっとも相応しい案内先であった。〕〔千葉県在住の鉄道愛好家である白土貞夫による「千葉鉄道管理局における天然ガスカーの盛衰」(『鉄道ピクトリアル』177号 1965年11月 p27)の記述によると、1949年3月当時、総武・房総各線を走る客車340両のうち83%の282両がナハ22000形などの木造車で、「雨漏がして久留里線の車中で傘をさしたという乗客の声がNHKラジオの電波に乗るような最悪な状態」であったという。〕。更に、過去の事故における木造車と鋼製車の被災状況記録なども比較提示し、木造車の老朽化対策が喫緊の課題であることを懸命にアピールしたという。この結果、国鉄は1949年から鋼体化改造に着手できることになった〔1949年当時、車両新製許可はドッジ・ラインなどの経済抑制施策下での制約が厳しかったが、老朽車を放置したために更なる重大事故が発生すれば、CTSも安全上の監督責任を問われかねないリスクがあり、国鉄はそこを突いて鋼体化改造の許可を勝ち取ったのである。〕。 鋼体化改造の場合、客車の製造費用を従来の半分程度〔部材の大幅流用や、国鉄工場の余剰労働力の活用などで、完全新造車の55%前後の費用に抑えられたと言われる。井澤(1949)による計画時の試算では当時で新造車の54%と見積もられていた。〕に抑えることができるとともに、安全対策を主眼とした既存車両改造名目のため、車両新造に関わる制約を受けずに済んだ。 これらの鋼体化客車は他の制式鋼製客車などとの区別のために60番台の形式を付されており、このことから後年になって便宜上、60系客車と呼ばれるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国鉄60系客車」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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