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国際汽船 : ミニ英和和英辞書
国際汽船[こくさいきせん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くに]
 【名詞】 1. country 
国際 : [こくさい]
 【名詞】 1. international 
: [さい]
  1. (n-adv,n) on the occasion of 2. circumstances 
汽船 : [きせん]
 【名詞】 1. steamship 
: [ふね]
 【名詞】 1. ship 2. boat 3. watercraft 4. shipping 5. vessel 6. steamship 

国際汽船 : ウィキペディア日本語版
国際汽船[こくさいきせん]

国際汽船株式会社(こくさいきせん)は、1919年(大正8年)から1943年(昭和18年)まで日本に存在した海運会社である。
日本政府が設立に関与した国策会社ではあったが、設立の経緯や度重なる経営難、世情の影響などから、初期は神戸川崎財閥鈴木商店などの影響が強く、銀行による支配の時代を経て、後年は大阪商船の支配下に入るという、国策会社の割には民間会社の力が強かった時期があった。太平洋戦争中の戦時統合で、大阪商船に合併されて姿を消した。その船隊は、初期は第一大福丸型貨物船を主体とし、後期にはディーゼル優秀船を取り揃えたが、戦争によりほぼ姿を消し、記録や写真にのみ、その残像をとどめている。
本稿では、第二次世界大戦後の一時期に国際汽船の名義を使って海運代理業を営んだ、飯野海運の子会社である国際海運株式会社についても記述する。
==沿革==

===設立の背景===
日本の海運業界は明治末期および大正初期までに、おおむね二つの勢力が形成されていた。一つは日本郵船や大阪商船、東洋汽船など、政府などから命令航路を受命して運航し、またいくつかの定期航路を抱える規模の大きな会社で、「社船」〔#川崎汽船五十年史p.35〕と呼ばれていた。もう一つは、大雑把に言えば「それ以外」の、主に不定期航路を主体にした海運会社で、「社外船」〔と言われるものがこれである。二つの勢力の差は歴然としており〔ただし、命令航路を抱える社船は経営面で政府などによる制約が多く、その点では制約のない社外船の方が何かと有利だった(#日本郵船株式会社百年史p.195)。〕、また社外船は乱立気味で、日本近海の海運市況を押し下げる要因になっていた〔#川崎汽船五十年史p.36〕。そこで、社外船が一大合同して大規模な会社を設立し、海外に打って出て社船と肩を並べようとする動きが明治中ごろからあり、1906年(明治39年)ごろに最高潮に達したが、経済不況などによりいったんは挫折した〔#川崎汽船五十年史pp.35-36〕。
社外船合同運動が再燃したのは、1914年(大正3年)の第一次世界大戦勃発後である。内田信也山下亀三郎勝田銀次郎のいわゆる「三大船成金」などが台頭し、直接戦場にならなかった日本の海運業界は好況に沸いた〔#松井p.118〕。その最中に合同話が再燃したのである。焚きつけたのは三大船成金と、川崎造船所社長松方幸次郎、鈴木商店支配人金子直吉、東洋汽船を設立し社長を務める浅野総一郎らが中心で、三井三菱辰馬汽船などといった社外船船主を取り込み、さらには内田嘉吉逓信次官を通じて、日本と同じように直接戦場にならなかったアメリカの船主をも巻き込む合同話に膨れ上がった〔。大正9年3月の時点で「資本金2億円。日本、アメリカ双方が1億円を出資」、「主な営業航路は日本と南米北米ロシア、日本と欧州」などといった具体案も出たが、アメリカが関わっていることに対して反対する声があって、日米合同の社外船会社の話は日本国内のみの話に縮小し、さらに船価設定について「500円に設定して、償却は国の助成によってなされるべき」という声と、「300円でも高い。200円程度が妥当」という声が対立して、結局は双方の声を折衷したような350円で決まったが、この決定に、高値で船を購入した社外船船主が反発して合同運動と訣別し、運動自体がまたもや風前の灯火になるかに見えた〔#川崎汽船五十年史pp.36-38〕。
話は変わって、第一次世界大戦が半ば過ぎた1917年(大正6年)8月、アメリカは鋼材不足の折から日本への鋼材輸出を禁止せざるを得なかった〔〔#播磨造船所50年史p.31〕。鉄鋼業が十分に発達していない日本は、船舶用鋼材をアメリカに頼っていたこともあって打撃を受けた〔。そこで、前記の松方、金子および浅野の3名が代表となってアメリカ政府と大使経由で交渉を重ねた結果、大正7年3月に日米船鉄交換契約が成立し、日本側がアメリカの欲する数の船舶を提供し、見返りにアメリカ側が相応の鋼材や船舶付属品を提供するというこの契約で造船業界は息を吹き返したが、大量建造半ばにして大戦は終わり、せっかく建造した船舶の大半は余る結果となった〔#川崎汽船五十年史pp.37-38〕〔#川重社史pp.81-82〕〔#播磨造船所50年史pp.31-35〕〔#松井pp.118-119〕。川崎造船所も、建造した第一大福丸型貨物船をはじめとするストックボートのうちの何隻かはアメリカ船主などに売却できたが、依然として多数抱えていた〔#川重社史年表諸表pp.174-183〕。その対策としてまず、造船所内に船舶部を設けて貨物船の運用にあたらせ、次いで川崎汽船を設立して川崎造船所船舶部とは別個に海運業を開始させた〔#川崎汽船五十年史p.38〕〔#川造四十年史p.56〕〔#松井p.87〕。そして、なおも余るストックボートの運用先として、上述の気息奄奄としていた合同運動に目をつけた。元来、川崎造船所は合同運動の旗振り役の一つではあったが、船価問題で静観していた〔。川崎造船所が合同運動に正式に加わり、ストックボートの提供を表明した時点で、「社外船主が合同する海運会社」の話は一転、「余った大量建造船の運用先となる海運会社」の話に変貌したのである〔#川崎汽船五十年史pp.38-39〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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