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国際・開発研究大学院 (英語: Graduate Institute of International and Development Studies フランス語: Institut de hautes études internationales et du développement, IHEID) は、 スイス・ジュネーブにある小規模な大学院大学である。学術界と専門家の間では、国際・開発研究大学院はヨーロッパの最も権威ある機関の一つと考えられている。 大学院の卒業生と教授陣には、 大使、 外務大臣、 国家元首、国際連合事務総長を勤めたコフィー・アナン、7人のノーベル賞受賞者、1人のピューリツァー賞受賞者がいる。 大学院は、政治学、国際関係論、国際法、国際経済、国際政治史、人類学、開発研究の分野を専門としている。 学生の8割は留学生であり、その国籍は100ヶ国以上にのぼることから、非常に多様であり国際的な色彩を帯びている。〔大学は、ヨーロッパの国連本部、世界貿易機関、国連難民高等弁務官事務所、世界保健機関の近くに位置している。 国際関係の世界のトップ大学が加盟する国際関係大学院協会の一員であり、スイス政府により独立研究機関だと認定されている。 国際・開発研究大学院は、ヨーロッパ大陸部で最も歴史を持つ国際関係の大学であり、国際関係に特化した最初の大学である。 世界で初めて国際関係論の博士課程を創設した大学でもある。 2008年に国際研究大学院が、開発大学院を吸収し現在の名称になった。 2013年には、the Maison de la paixという新しいキャンパスがオープンした。 ==歴史== 国際・開発研究大学院は、1927年に国際連盟で働く2人の外交官、学者によって設立された。 任務部門監督のスイス人 ウイリアム・ラパードと政治部門監督のフランス人ポール・マントーである。〔 〕 国際連盟と同じく英語・フランス語を公用語とし、創始期の国際機関への人材を育てる目的を有していた。〔 そのうちの一人ラパードは、1928年から 1955年まで学長を勤めた.〔 大学院は、創設時 国際連盟 と 国際労働機関との緊密な連携関係にあった。両者の間では、大学院は人材の育成を行う一方、上記の国際機関は講演などを通して外交の専門知識を提供するということが合意されていた。 規定によれば、大学院は「歴史、法律、経済、政治、社会を中心とした国際的な学問を行うための手段を、全ての国の学生に提供することを目的とした機関」であった。 大学院は、著名な教授陣を数多く集めることに成功した。とりわけ、ナチス政権の支配下に置かれていた地域からは、ハンス・ウェーベルク や ジョージ・シェルといった法学者、モーリス・ボールキンといった外交史家、ポール・グーゲンハイムといったジャーナリストといった教授陣が揃った。 上記の経緯から、ウイリアム・ラパードは、大学院の発展に最も寄与したのはムッソリーニとヒットラーだという皮肉を述べたとされている。 時代が下ると、さらに著名な学者が教授陣に加わるようになった。法理論や法哲学で名高いハンス・ケルゼン、イタリアの歴史家グリェルモ・フェレーロ、学者でもあり外交官でもあったカール・ブルクハルトは、いずれも大学院に愛着を持ったと言われている。その他にも、同じく独裁から逃れる形で、 自由市場経済の歴史で有名なLudwig von Misesや戦後ドイツの自由主義経済政策に大きな影響を与えたWilhelm Ropkeが教授陣に加わった。 創設後しばらく後に、大学院は ''cours temporaires'' と言われる、優れた知識人による一週から一年に渡る特別講義を設けた。この講義は、多くの有名な知識人によって担当した。例えば以下の人々が講義を担当した。 レイモン・アロン、ルネ・カサン、ルイージ・エイナウディ、 ジョン・ケネス・ガルブレイス、ジョージ・ピーボディ・グーチ、 ゴットフリート・フォン・ハーバラー、 フリードリヒ・ハイエク、 ヘルシュ・ロイターパクト、 アーノルド・マクネール, グンナー・ミュルダール, ハロルド・ニコルソン、 フィリップ・ノエル=ベーカー、ピエール・レノヴァン、 ライオネル・ロビンズ、 ジャン・デュ・サリス、カルロ・スフォルツァ、 ジェイコブ・ヴァイナー。 特に オクスフォード大学の国際関係論の教授である アルフレッド・ジマーンは、とりわけ大学院に大きな貢献をした。 彼は1924年にパリの知的協力のための国際会議(the International Council for intellectual Cooperation) に参加すると同時に、 ジュネーヴ大学の後援で、後に、'Zimmern schools'と呼ばれることになる国際情勢に関するサマースクールを主催した。 この試みによって得られた経験は、国際・開発研究大学院創設期に行われたこともあり、大学の発展に寄与した。〔 大学の規模が小さいにも関わらず (1980年代までは 教授陣は25名以下であった)、 教授陣からはグンナー・ミュルダール、 フリードリヒ・ハイエク、 モーリス・アレ、ロバート・マンデルの4人がノーベル経済学賞を受賞している。 これとは別に、3名の卒業生がノーベル賞を受賞している。 1927年から1954年の30年近くにわたり、 大学院は主に ロックフェラー財団によって財政的に支えられた。その後は、 ジュネーヴ州 と連邦参事会 が財政を負担している。 この財政負担の移行と同時期の1955年には、ウイリアム・ラパード に代わって、ローザンヌ出身の歴史家である ジャック・フレイモンドが学長となった。 フレイモンド は、彼の引退後1978年まで続けられることになる教授科目と生徒数、教授陣の拡大に着手し、大学院の規模は大幅に拡大した。 彼の下で、大学院は、 多くの国際学会を主催した。 その中には、東西陣営の対話の前提, 中国の国際政治での台頭と対中外交、ヨーロッパ統合, 政治社会経済の予測の方法やその結果 (有名なローマクラブ レポートや Bertrand de Jouvenelによる the Futuriblesプロジェクト)、テロリズムの原因とその対策, Pugwash Conference concerns などが含まれる. また、彼が学長をしている間には、Paul Guggenheim 教授による国際法論文集やコミンテルンに関連する歴史文書を集めた6冊の本といった記念碑的な出版も多く行われた。〔 現在の大学院のもう一つの起源であるGraduate Institute of Development Studies (フランス語: Institut universitaire d’études du développement, IUED) にもフレイモンドは関与している。彼は、 1961年に ''Institut Africain de Genève''(英語名: African Institute of Geneva) を設立した。 Graduate Institute of Development Studies は、持続可能な成長の学問分野の発展においてヨーロッパの先駆的な存在であった。教授の多くが開発援助に対して批判をしていたことと ''Cahiers de l'IUED''という学術ジャーナルによってよく知られていた。〔http://www.infosud.org/spip.php?page=article&id_article=5076〕 国際的な学術ネットワークの中心でもあった。 2008年に国際研究大学院が、開発大学院を吸収し現在の名称(国際・開発研究大学院, IHEID)になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国際・開発研究大学院」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Graduate Institute of International and Development Studies 」があります。 スポンサード リンク
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