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國貞廉平 ( リダイレクト:国貞廉平 ) : ウィキペディア日本語版 | 国貞廉平[くにさだ れんぺい] 国貞 廉平(くにさだ れんぺい、1841年5月12日(天保12年3月22日) - 1885年(明治18年)1月18日〔『明治維新人名辞典』358-359頁。〕)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚。愛知県令。諱・景孝、景廉、景行。通称・鶴之進、直之進、直人、廉平。変名・逸水清助。雅号・韓山〔。 ==経歴== 長門国萩城下松本村で長州藩士・国貞要助の嫡男として生まれた〔〔『三百藩家臣人名事典 6』281頁。〕。藩校・明倫館で学び、万延元年(1860年)江戸の有備館に入り、大橋訥庵の指導も受けた〔。文久2年(1862年)藩世子の近侍となる〔。慶応2年正月(1865年)鎮静会議員に加わり内乱の収拾に尽力〔。同年5月、干城隊頭取兼文学寮都講となり、さらに国政方を務めた〔。幕長戦において同年末に小倉藩との和議を担当〔〔。慶應3年11月(1867年)、上京諸隊の参謀を務めた〔。 明治元年(1868年)に帰藩し、御用所役に就任。以後、参政・山口藩権大参事、同少参事などを歴任〔。明治2年12月(1870年)諸隊脱走兵反乱への対応を行う〔。1874年、内務省に出仕し、名東県参事、愛知県参事、同大書記官を歴任〔。 1880年3月8日、愛知県令に就任。自由民権運動の最盛期であり、県会と衝突を重ねたが、備荒儲蓄法、公娼・席貸営業廃止運動については県会と協力して推進した〔『新編日本の歴代知事』583頁。〕。在任中に肺炎のため病死した〔。
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