|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 一 : [いち] 1. (num) one
国塩 耕一郎(くにしお こういちろう、1905年(明治38年)9月6日 - 1986年(昭和61年)6月7日〔『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』222頁。〕)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選茨城県知事、日本音楽著作権協会理事長。 ==経歴== 岡山県赤磐郡(後の山陽町、現:赤磐市)で、国塩達太の長男として生まれる〔〔『人事興信録』第15版 上巻、ク13頁。〕。第一高等学校を卒業〔。1928年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し広島県属となる〔〔〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』273頁。〕。 以後、地方警視・愛知県警察部保安課長を経て〔、1935年8月、警視庁警視・保安課長に就任。警官音楽隊(警視庁音楽隊)を創設した〔。1937年7月21日、内務省警保局図書課勤務となりプラーゲ旋風への対策に当たる〔「旧著作権法をめぐる人々」47-49頁。〕。さらに、情報局勤務、厚生省勤労局配置課長などを歴任〔。厚生省職業局技能課長に在任の1943年夏、軍用石油の確保のため100トン級小型木造船の大船団による石油輸送計画を立てた人物が、木造船建造のための技術者の確保について依頼してきた。国塩が艦政本部に伝えると、木造小型船で荒天の南シナ海を航行するのは無理と反対され、そのことを依頼者に伝えると、艦政本部や政府の行政まで批判してきた。国塩が反論すると、後日、東京憲兵隊に連行され「東條内閣を打破せよと叫んだのは本当か」と尋問された〔。国塩は政府の戦争遂行政策への疑問をいだくようになり、同年末に辞表を提出し1944年7月に退官した〔〔。 終戦を迎え、戦後の混乱収拾のため官界に復帰を決意し、1945年9月、広島県教育民生部長に就任〔。終戦連絡中央事務局部長〔を経て、1947年3月14日、茨城県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月12日に知事を退任〔『新編日本の歴代知事』256頁。〕。同年7月2日、経済安定本部監査局長に就任〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』479頁。〕。1948年8月1日、中央経済調査庁査察部長に就任し1949年12月22日に退官した〔〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』480頁。〕。 その後、日本音楽著作権協会会長、同理事長、同顧問、ニッタ相談役、チヨダシューズ取締役などを務めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国塩耕一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|