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圓瑛 ( リダイレクト:円瑛 ) : ウィキペディア日本語版 | 円瑛
円瑛(えんえい、1878年-1953年9月12日)は、中国の禅僧。字は円瑛、法名は宏悟。韜光と一吼堂主人は道号である。福建省古田県出身で俗姓は呉氏。「楞嚴獨歩」とも称される。 ==略歴== 1878年、福建省古田県仏教の熱心な信者の家庭に生まれる。父は元雲、母は闕氏。五六歳の時、両親が亡くなって、叔父から彼の生活を照応する。10歳の時に出家を志したが、叔父は彼の出家に反対する。19歳で福州鼓山の梅峰寺の增西上人に入門·受戒し。翌年、湧泉寺の妙蓮和尚のもとで具足戒を受ける。後、大雪峰寺の達公和尚に師事して学び。21歳の時、円瑛は冶開老和尚に従って禅宗を学ぶ。25歳の時、浙江省寧波天童寺八指頭陀に師事。 光緒三十四年、福建省泉州湧泉寺に住した。宣統元年、寧波接待寺住職に当選。寺には住まなかったが再興に尽力し。1912年(民国元年)、中国仏教総会参訳長に就任。民国六年、寧波仏教会会長に当選、僧民学校創設。民国九年、円瑛は北京に仏法を宣揚する。民国十一年、円瑛はシンガポール、ペナン島等の寺院で仏教を広めている。民国十二年、泉州に帰り、開元寺を修築する。民国十八年五月、中国仏教会会長に就任。民国十九年、寧波天童寺住職に当選。民国二十六年正月、福建省泉州湧泉寺住職に当選。1937年、円瑛は再び南洋に来た。シンガポール、クアラルンプール、ペナン島などで募金。民国二十八年、円瑛は上海に帰ってきた、円明講堂に住した。民国三十四年、円明楞嚴専宗学院創設。1949年、円瑛は上海で仏教を広めている。1951年、北京亞洲と太平洋区域和平会議にも出席していた。1953年、中国仏教協会第一任会長に当選。後、寧波天童寺にて示寂。享年76で入滅。法臘57。
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