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土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代の武将・政治家。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った〔『江戸お留守居役の日記』 42ページ〕。その事績や資料については原念斎が編纂した『賢相野史』に詳しい。 == 生涯 == === 出生 === 元亀4年(1573年)3月18日、水野信元の三男(末子)として生まれ、兄に十郎三郎、甚左衛門(茂尾平兵衛)がおり、徳川家康の母方の従弟にあたる。系図には徳川家家臣・土井利昌(小左衛門正利)の子と記載されている。 天正3年(1575年)に父信元が佐久間信盛の讒言で武田勝頼と内通したという罪により織田信長の命で、従兄家康に討たれた後、家康の計らいで利昌の養子になった。利昌には実子で長男の元政(甚三郎)がいたが、それを差し置いて利勝が家督を継いでいる。 なお、利昌の実子とする場合は、遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)で生まれで、母は葉佐田則勝の娘という説もある〔 川口素生 著『戦国武将、逸話の真実と謎』学習研究社、2007年、p.318〕。 また、家康の落胤という説もある。井川春良が著した『視聴草』には、家康の隠し子であることが書かれている他、徳川家の公式記録である『徳川実紀』にも説が紹介されている。この説によると、利勝は幼少時から家康の鷹狩りに随行することを許されたり(土井家は三河譜代の家臣ではない)、破格の寵愛を受けていたためである。また当時、家康は正室の築山殿との仲が冷え切っており、そのために築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれたという可能性も否定できないところがある。森銑三は、父とされる信元と家康の性格を比較した時、短慮であった信元よりも、思慮深い家康の方が利勝の性格と共通する要素が深いと考察している〔森銑三著作集続編 第一巻 79ページ 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土井利勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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