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土井垣 武(どいがき たけし、1921年7月21日 - 1999年1月25日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)。後に若松と改姓。尚、姓の読みはどいがきではなく正しくはどいかいとと読むと言うが、中々、正しく読んでもらえず、そのまま「どいがき」で通したと言う〔週刊ベースボール2012年3月26日号 P72〕。 愛称は、熱血的な性格からニューヨーク・ヤンキースの往年の名捕手にあやかって「和製ヨギ・ベラ」。 末弟にパシフィック・リーグ審判を長らく務めた土井垣幸男がいる。 == 来歴・人物 == 幼い頃から大阪鉄道局米子野球部のマスコット的存在として可愛がられていた。旧制米子中学校(現:米子東高校)では下級生の時から主軸を打ち、5年生時の夏の甲子園で主将としてベスト8に進出、嶋清一、真田重蔵擁する海草中に敗れた(このとき主に遊撃を守っていたのが、1期後輩の長谷川善三)。下級生の時は、2期先輩の木下勇ともバッテリーを組んでいた。 、大阪タイガースに契約金500円で入団。正捕手・田中義雄の控えとして一塁や三塁を守った。 戦後のに打率.325でリーグ3位に輝く活躍を見せ、「ダイナマイト打線」と呼ばれた大阪の打撃陣の中で、3番・別当薫、4番・藤村富美男らと共にクリーンナップの一員として5番を打った。には自己最高の成績で、打率.328、本塁打16本、打点86を記録。また、当時の大阪投手陣の若林忠志、御園生崇男らエース級投手をリードして、屋台骨を支えた。 強肩強打、気性の強い捕手として、戦前の巨人の捕手であった吉原正喜の再来と称される。本人も、手本にしたのは吉原さんであり、すべて吉原の技術から学んだと述べている〔巨人軍最強の捕手 晶文社 澤宮優 2003P110〕。 1949年オフ、毎日オリオンズに移籍。若林、別当、呉昌征、本堂保次、大館勲らと同調したと言われることがあるが、土井垣の移籍は10年選手制度によるものであり、移籍決定も時系列的に若林らより前である。移籍理由は違わず大阪フロントに対する不信感であったが、移籍は単独で決めたことであり、若林は土井垣の移籍を全く予期していなかったという。 移籍したに打率.322でリーグ5位に入る活躍を見せ、日本シリーズでは松竹ロビンスを破り初代日本一に貢献した(この時の監督は米子中の先輩にあたる湯浅禎夫)。に東映フライヤーズ、に阪急ブレーブスに移籍し、シーズン限りで現役引退。 引退後、朝日放送(ABC)野球解説者、報知新聞評論家などを経て、に阪神の二軍バッテリーコーチに就任。には一軍打撃コーチを務めた。 その後は若松家に養子縁組し、京都市の西陣で、西陣織を扱う会社の社長をしていたが、1999年1月25日に肺炎で死去。満77歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土井垣武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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