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土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日(明治4年10月23日) - 1952年(昭和27年)10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、林吉(りんきち)。姓は元は「つちい」だったが昭和初期に改称した〔『雨の降る日は天気が悪い』序文〕。男性的な漢詩調の詩風で、女性的な詩風の島崎藤村と並んで「藤晩時代」と称された〔。また、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者としても知られ、校歌・寮歌なども多く作詞した。戦陣訓の文校正でも知られる。英文学者としては、ホメロス、カーライル、バイロンなどを翻訳している。 == 生涯 == 1871年(明治4年)、仙台県仙台の北鍛治町(現・宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)に、富裕な質屋の土井林七、あいの長男として生まれた。父は挙芳と号し和歌、俳諧などの文学趣味を持ち、祖母伊勢も和歌を作っていた。8歳で培根小学校(現・仙台市立木町通小学校)に入学。同校在学時に父の影響で『水滸伝』『三国志』『十八史略』に親しみ、『新体詩抄』を愛読した。 祖父の「商人に学問は無用」という意向により進学を阻まれたが、家業に従事しながら英語の通信教育を受けた。1887年に斎藤秀三郎主宰の仙台英学塾に通学を許され、のち第二高等中学校(東北大学の前身校の一つ)に入学し、吉野作造と交友を結ぶ。1894年(明治27年)に帝国大学英文科に入ると、英語の他、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語を学ぶ。『帝国文学』編集委員となり、1896年12月号に「紅葉青山水流急」を発表し、以後『帝国文学』『反省雑誌』に詩を発表する。 大学卒業後1897年に郁文館中学に就職。1898年(明治31年)にはカーライルの『英雄論』を翻訳出版。1899年(明治32年)には高山樗牛の働きかけで第一詩集『天地有情』を刊行。この2年前に『若菜集』を発表していた島崎藤村とともに「藤晩時代」あるいは「晩藤時代」と呼ばれた。 また1898年に東京音楽学校(現・東京芸術大学)から中学唱歌用の歌詞を委嘱され、「荒城月」(のちの「荒城の月」)を作詩〔異国で会った作者たち 「荒城の月」 (朝日新聞 2011年10月8日)〕。同校がこの詩につける曲を公募し、瀧廉太郎の曲が採用され、1901年(明治34年)に「荒城の月」として発表、『中学唱歌集』に収められた〔。 1900年に母校である第二高等学校教授となり帰郷。翌年に第二詩集『暁鐘』を発表し、二高を辞任してヨーロッパに遊学。1904年に帰国し、翌年に二高に復職、同校校歌を作詞した。詩集『東海遊子吟』などを刊行後、大正期はむしろ英文学者としての活躍がみられる。1924年(大正13年)にはバイロン没後100周年を期して『チャイルド・ハロウドの巡礼』を翻訳刊行。昭和になってからはホメロスの翻訳に打ち込んだ。 1934年(昭和9年)、二高を定年退職し名誉教授となる。また、生前から姓「つちい」を、誤って「どい」と多く読まれたことを受け改姓。晩年には両姓の読みの誤りを訂正することを止めたため両方の表記が多く残っている。1941年(昭和16年)の戦陣訓の文体作成について島崎藤村・佐藤惣之助とともに参画した。仙台空襲に遭って、住居と三万冊に及ぶ蔵書を失った。 戦後占領期に漢詩調詩が廃れたため、校歌の作詞にほぼ専念する。1950年(昭和25年)に、詩人としては初めて文化勲章を受章。文化功労者、仙台市名誉市民。1952年(昭和27年)、急性肺炎のため死去した。 妻子に次々と先立たれたことで心霊学にも関心を示すようになり、1946年(昭和21年)には財団法人日本心霊科学協会の設立に顧問として関わっている。また、日本全国の学校の校歌を作詞したことでも有名で、特に浅水小学校(宮城県登米市)などの校歌は有名である。母校である木町通小学校の校歌も作詞した。1967年(昭和42年)、晩翠が作詞した校歌を集めた歌集『晩翠先生校歌集』が作られたが、遺漏が多いとされており、いかに多くの校歌を作ったか推測できる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土井晩翠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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