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土佐勤王党(とさきんのうとう)は、幕末の土佐藩において、尊王攘夷を掲げて結成された結社。土佐勤皇党と表記される場合もある。 == 沿革 == ===結成=== 土佐勤王党は文久元年(1861年)、土佐出身で江戸留学中であった武市瑞山らによって結成された。 大石弥太郎の起草による盟約書には、尊王攘夷思想とともに、安政の大獄により失脚した前藩主・山内容堂の意志を継ぐことが謳われている。自身の手で血盟書を土佐へ持ち帰った武市は、最終的に200人余の参加者を集めた。しかも血盟外同志・協力者を含めると500名を超えたともいわれ、土佐における尊攘運動の一大勢力となった。盟主である武市こそ「白札」(上士と下士の中間身分)の出身であったものの、その他の構成員は郷士層を中心とする下士が圧倒的多数を占め、ついで庄屋が多かった。一方、当時藩政を握っていた上級武士(上士)からの参加者はわずかであった。なお土佐における最初の加盟者でもあった坂本龍馬は、伏見義挙の誘いを受け脱藩、武市らと行動を共にするのは短期間にとどまった。ただし脱藩者であっても、その後も龍馬含め党員同志の交流は続いていた。 黒船来航に端を発した尊攘運動の高まりの中、薩・長・土による同志間の会合で武市が三藩主同時入京を提案、これが実行に移された。土佐も乗り遅れぬよう土佐藩参政・吉田東洋に何度も会見を申し入れ「挙藩勤王」(後述)を説き続けたが、書生論として却下され続けた。翌文久2年(1862年)には、尊攘運動の中心である京都において、朝廷からの上洛の内勅により、薩摩・長州両藩は藩主を奉じて京に進出しようとする動きが出ていたが、土佐藩は依然として何一つ動けない状況にあり、これに焦れた感じた吉村虎太郎や龍馬をはじめとした複数の同志らが決別、脱藩者を出すことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土佐勤王党」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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