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土居 清良(どい きよよし/せいりょう)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。伊予国大森城主。西園寺十五将の1人。 清良の事績を実証できる同時代の史料は少なく、江戸時代に一族によって清良の生涯を描いた『清良記』が著されたが、同書は軍記物に近い性格のものとなっている。 == 生涯 == 天文15年(1546年)、土居清晴の子として伊予宇和郡三間(現愛媛県宇和島市)に生まれる。 永禄3年(1560年)、大友氏の侵攻によって祖父・土居清宗や父は戦死して一家は没落し、15歳の清良は土佐一条氏の下で被官となる。この頃、後の河後森城主となる渡辺教忠と共に過ごしている。数々の功績により伊予帰還を認められ、伊予大森城主として三間3村、約2千石の領主となる。 一条氏から離れた後は西園寺氏に属し、大友氏、一条氏、長宗我部氏の侵入を防いだ。毛利氏の援軍として、中国地方各地を転戦し、名を上げたという。当時の四国勢としては珍しく、配下の者全員に鉄砲を装備させており、総勢300名程度の小軍でありながら、圧倒的な戦力であったとされる。清良記によれば、天正9年(1581年)には長宗我部氏の大軍を岡本城に迎え撃ち、知略をもって長宗我部元親の家老・久武親信を討ち取る戦功を上げている。 天正15年(1587年)、四国攻めの際に小早川隆景に所領を安堵されたが、小早川氏の九州転封に伴い、下野する。その後、藤堂高虎からも仕官の誘いがあったが断り、隠棲した。 寛永6年(1629年)3月24日に死去した。享年84。約200年間、迫目村の宝樹山妙覚寺が土居家の香華院であったが、享和3年(1803年)に土居清良の末裔、土居与兵衛が土居中村の牛河山竜泉寺を再建し、廟所が当寺に移っている。没後33年に当たる寛文元年(1661年)には、土居家の末裔や旧家臣の申請によって寛文年間に京都の神祇副吉田家より「清良明神」の神号免状を得、清良神社に祀られた。今も郷土の人々の追慕を集めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土居清良」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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