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土屋 雅敬(つちや まさたか、 1924年10月8日 - )は、広島県広島市出身のプロ野球選手(内野手・外野手)。登録名、1950年~1952年・五郎、1953年~1955年・伍郎、1956年・1957年・雅敬。 ==来歴・人物== 1942年、広島商業のエースで4番として「幻の甲子園大会」出場。この大会は戦局の悪化で主催の朝日新聞が降り、文部省と大日本学徒体育振興会の主催で、従来の夏の大会と同じ形で甲子園で行われた。ただし朝日新聞の主催でない為、公式記録に入れてもらっていない。広商は準決勝まで勝ち進んだが、平安中学に逆転負けした。優勝は徳島商業。この年の広商は、土屋も含めて投手力が弱く準々決勝、対仙台一中戦で四死球を27個を出した。然し相手の仙台一中も18個で、合計45個とは、そつの無い野球でその名を轟かす広商からすれば、あまり表に出て欲しくない過去かも知れない。この試合の球審を務めた天知俊一が高めを一切、取らなかったのも原因の一つと言われる。そういう事もあってこの試合のスコアは、28対10である。7回裏に1イニングで17点取っている。甲子園での最多得点記録というと、1985年のPL学園×東海大山形の合計36点が有名で最多記録だが、この大会が公式に認められるような事が有れば、この広商×仙台一中がこれをも凌ぐ。その他の出場チームの選手には、南海の名選手・名参謀だった蔭山和夫、蔭山の市岡中学をノーヒットノーランで破った富樫淳(平安中学、のち阪神、平安高校監督)、早稲田大学の名監督・石井藤吉郎(水戸商業)、毎日オリオンズの“火の玉”投手荒巻淳(大分商業)らのちの名選手・名指導者が出場している。 土屋は法政大学に進学し野手に転向。1947年秋、東京六大学リーグの首位打者を獲得。コロムビアを経て、1950年の国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の結成に参加、俊足・巧打の1番打者として活躍した。翌年1951年、52盗塁で盗塁王を獲得。1953年、4月9日の対・名古屋ドラゴンズ戦では1試合5盗塁をマークした。デビュー当時の金田正一の親友だった。1955年、広島東洋カープに移籍。1957年引退。その後は中国放送の解説者を勤めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土屋雅敬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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