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土屋 征夫(つちや ゆきお、1974年7月31日 - )は、東京都文京区出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー。 == 人物 == 小学校2年から中学まで三菱養和SCに所属していたが、中学3年時に転校して一時期サッカーから離れている〔土屋征夫選手インタビュー後編 書道部・留学・そしてヴェルディへ 空間都市八王子 2007.5.29付記事〕。三菱養和SCでの同期に加賀見健介、黄川田賢司がいる。東京都立田無工業高等学校入学時にサッカー部に入部したが、上下関係の厳しさに辟易して同級生と共に1週間で退部、卒業までは書道部で活動した〔。 高校卒業後の進路としてブラジルへのサッカー留学を選択し、ブラジルへ渡る。この期間にポルトガル語も習得した。愛称の「バウル」はブラジル時代に住んでいた街の名前。名付け親はヴェルディ川崎時代にチームメイトだったブラジル人FWのマグロン。ブラジルでプレーする土屋の存在を知ったヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)から練習参加のオファーが届き帰国、1997年にヴェルディとプロ契約を結んだ。1999年にヴィッセル神戸に移籍し、サイドバックからセンターバックにコンバートされて才能が開花。神戸時代から始めたスキンヘッドがトレードマーク。神戸では6年に渡りレギュラーとして活躍。2001年には代表候補にも名前が挙がった。神戸の後輩北本久仁衛は土屋を「影響を受けた選手」と公言している。北本もスキンヘッドは土屋に倣ったもの。トルシエジャパンがフラットスリーで世間を賑わせていたころ、シジクレイ、北本久仁衛の3人で3バックを組み、「ピカッとスリー」と呼ばれた。しかし、神戸最後の年は数試合ベンチから外された。 2005年に柏レイソルに移籍。10月の浦和レッドダイヤモンズ戦にて、柏レイソルが4-0で二人少ない状況から浦和FW田中達也へ悪質なタックルを行いこれにより、田中が全治5-6ヶ月の大怪我を負った。これが元でネット上の掲示板などにおいて誹謗中傷の標的となった。土屋本人も田中の怪我が重傷だった事にショックを受け、柏の早野宏史監督(当時)の配慮もあり次節の試合を欠場した。土屋がショックを受けているのを知った田中が「試合にアクシデントは付き物であり、自分が怪我をしてしまった事は仕方が無い」として土屋を擁護するメッセージをファンに向けてネット上で発信した。〔田中達也からのメッセージ(浦和レッズオフィシャルサイト/2005年10月16日) 〕 大宮では再びサイドバック(左サイド)としてプレーした。大宮でレギュラーとして活躍したが、2007年からは東京ヴェルディに9年振りに復帰した。東京ヴェルディでは主にセンターバックでプレーし、「絶対的存在」、「大黒柱」と形容させるほどとなる〔J's GOAL | J'sGOALニュース | 【J2:第3節 東京V vs 京都】プレビュー:大黒柱不在。“チーム力”問われる東京Vは、一新した大木・京都を相手に連敗脱出を誓う。 〕。2012年シーズン終了後に契約非更新で東京ヴェルディを退団。 2013年、ヴァンフォーレ甲府へ移籍。開幕から先発出場を続けていたがシーズン途中に負傷離脱した。その間にDFラインのメンバーが固定されたこともあり終盤は出場機会を減らしたものの貴重な戦力として活躍した。 ブログのタイトルを当初、「ハゲ丸」にしようとしていたが、公式ブログでは相応しくないということで「バウルと一緒に…」になった。 2013年4月6日、第5節大分トリニータ戦で決勝点となるヘディングシュートを決めると中山雅史からピカチューヘッドとあだ名がついた。2014年は怪我のため出場はなかった。 2015年8月16日、横浜FM戦でJ1での300試合出場を達成。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土屋征夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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