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土屋 正孝 (つちや まさたか、1935年10月6日 - )は、長野県松本市出身の元プロ野球選手(内野手)。 == 来歴 == 松本深志高校では複数のポジションをこなし、2年生では捕手と三塁手を兼ね、3年生になると投手を任されていた〔『巨人軍 陰のベストナイン』201頁〕。当初大学への進学を予定していたが、読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・国鉄スワローズから勧誘され〔『巨人軍 陰のベストナイン』204頁〕、に巨人に投手として入団。 入団後まもなく、二軍監督の内堀保が打力を生かして打者に転向させる〔『巨人軍 陰のベストナイン』205頁〕。ハワイから来日していた強打の柏枝文治より守備が安定しており〔『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』229頁〕、3年目のに三塁手のレギュラーポジションを獲得。に立教大学出身の大型三塁手・長嶋茂雄が入団すると土屋は二塁手にコンバートされるが、前年度までの正二塁手であった内藤博文や関西六大学リーグで本塁打記録を作った新人の難波昭二郎との競争に勝ってレギュラーとなる。当時の一塁・川上哲治(のち王貞治)、二塁・土屋、遊撃・広岡達朗、三塁・長嶋茂雄、という巨人の内野陣は派手で見栄えがよく、マスコミから大型内野陣あるいは百万ドル内野陣と呼ばれた〔『巨人軍 陰のベストナイン』211頁〕。また、にはリーグ2位の35盗塁を記録し、二塁手としてベストナインを獲得する。また、同年の南海ホークスとの日本シリーズでは、杉浦忠の4連投の前にストレート負けを喫する中、土屋は一番もしくは二番に座って18打数8安打の打率.444と一人杉浦を打ち崩し、敢闘賞を獲得している〔『巨人軍 陰のベストナイン』218頁〕。 に打率.206と成績を落とすと、一念発起して身体作りから練習をやり直すために、中野から多摩川グラウンドの近くへ住居を移す〔『巨人軍 陰のベストナイン』219頁〕。しかし、現役時代にかわいがられていた川上哲治が引退してヘッドコーチに就いたのちは関係が微妙になっており〔『巨人軍 陰のベストナイン』217頁〕、には既に契約更改まで終えていたにもかかわらず、川上が監督に就任すると土居章助とのトレードで国鉄スワローズへ移籍させられた〔『巨人軍 陰のベストナイン』220頁〕。 巨人では下位打線を打つことが多かったが国鉄では3番を任されて、ゴールデンウィーク頃には4割を越える高打率で打撃成績トップに座るなど、シーズン当初は巨人の長嶋と激しく首位打者を争った。この頃の打撃の好調ぶりは、巨人から東映フライヤーズの監督に移った水原茂が、思わず「しまった」(巨人が放出することを知っていれば東映に連れてきたのに)と漏らしたほどであったという〔『巨人軍 陰のベストナイン』221頁〕。結局この年はチームトップの打率.269(リーグ13位)、132安打を記録するなど、攻守の要として活躍し、球団史上初のAクラス入りの原動力となった。またこの年には、2度目のベストナインも獲得している。 に球団の経営権が国鉄からサンケイに譲渡される中、国鉄の今泉代表による経営立て直し策「高給のわりに貢献度の少ない選手」の放出第一号として、阪神タイガースに移籍する〔『敗れざる者たち』79頁〕。なお同時に国鉄ベテラン町田行彦(巨人へ移籍)・宮本敏雄(引退)らも退団している〔『日本プロ野球トレード大鑑』92頁〕。阪神では守備を優先するチーム方針もあって〔『敗れざる者たち』80頁〕、鎌田実・本屋敷錦吾の壁に阻まれて出場機会を得られず、同年限りで現役を退いた。 引退後は野球評論家を志し、野球評論を書いて文藝春秋へ持ち込むなど活動するが果たせず、六本木にクラブ『狂四郎』を開くなど自営業を営んだ〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土屋正孝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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