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土岐 頼芸(とき よりのり/ - よりなり/ - よりよし/ - よりあき)は、戦国時代の美濃の守護大名。土岐政房の次男。 土岐氏当主で兄の頼武及びその子頼純の嫡流と対立、美濃とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となった。しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。 == 生涯 == 文亀元年(1501年)に土岐政房の子として生まれる。この当時の美濃の国内情勢は重臣の斎藤家は守護代斎藤利国の戦死により衰退し、代わってその庶流長井家が台頭するなど斎藤家中は不安定であった。 斎藤家だけではなく守護土岐家も暗雲が漂っていた。父政房には長男の頼武がいたが、政房は次男の頼芸を溺愛して頼武の廃嫡を考えるようになり、政房によって頼芸は小守護代長井長弘、長井新左衛門尉(斎藤道三の父)らに擁立され、兄の頼武も守護代斎藤利良の支持を受けたことにより、両者は対立して家督争いが起こり、永正14年(1517年)、合戦となった。 この戦いで頼芸側は敗れたが、前守護代斎藤彦四郎の助力も得て、翌永正15年(1518年)、再び合戦となり、頼芸側が勝利し頼武を越前に追放し、頼武方の勢力を一掃した。しかし、永正16年(1519年)、朝倉孝景の支援を得た頼武側が美濃に侵攻し、頼芸側は圧倒され頼武側が勝利し、頼武が美濃守護に就くことになったことで決着がついたと思われた。 しかし、頼芸は政権奪取を企て、大永5年(1525年)に再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠した。享禄3年(1530年)には兄を再び越前に追放し、「濃州太守」と呼ばれて実質的な守護となった。その後、後ろ盾であった長弘、新左衛門尉らが相次いで死去したため、新左衛門尉の子規秀(後の斎藤道三)を重用し、勢力保持をはかったとされる。 天文4年(1535年)6月、父の17回忌を執り行い、自らの正統性を国内に宣言したため、兄の跡を継いだ甥頼純と対立し、朝倉氏、六角氏らが頼純側に加担したことにより戦火は美濃全土へ広がった。同年7月1日、新たな守護所であった枝広館が長良川大洪水で流され、稲葉山の麓に移る。同年同月22日、第12代将軍足利義晴の執奏により、修理大夫に任官。翌天文5年(1536年)、勅許により美濃守に遷任して正式に守護の座に就いた。 同じ頃、頼芸は六角定頼の娘を娶り、六角氏と和睦したことによって争乱はほとんど治まり、天文8年(1539年)には頼純との間に和議が成立した。天文10年(1541年)、重臣の斎藤道三が頼芸の弟頼満を毒殺する事件が起こったため、これ以降道三との仲が険悪となり、次第に対立する。 天文11年(1542年)、頼純の籠もる大桑城が落城し鷺山城へ移る。またこの年、頼芸は子の頼次ともども道三により尾張へ追放された(この時点で追放されたのは頼次であり、頼芸は道三の傀儡として守護の座に留まっていたという説もある)。 尾張の織田信秀の支援を得て、越前で朝倉孝景の庇護下にいた頼純と連携し守護の座に復帰するが、まもなく天文15年(1546年)、道三と孝景が和睦し、その和睦の条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡した。さらに天文17年(1548年)、信秀と道三が和睦したことによって後盾を失い、天文21年(1552年)頃、再び道三に追放され、妹の嫁ぎ先である近江の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸に寄寓し、この時治頼に系図や家宝を譲り渡したという。次いで上総の土岐為頼を頼り〔佐藤圭「土岐大膳大夫入道宛朝倉義景書状」(『龍ヶ崎市史研究』9号、1996年)〕〔『夷隅町史 資料集』(2002年)〕〔滝川恒昭執筆文『夷隅町史 通史編』(2004年)183-184頁〕、後に甲斐の武田氏に身を寄せる。この間に病によって失明する。 最後は旧臣であった稲葉一鉄のはからいで美濃に戻り、死去したといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土岐頼芸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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