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土師氏(はじうじ、はじし)は、「土師」を氏の名とする氏族。 天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。 == 概要 == 古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。 大阪府藤井寺市、三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた所で、その名がついた。道明寺は土師氏の氏寺である。 備前国邑久郡土師郷一帯は、飛鳥京跡出土の木簡では「大伯郡土師里」と呼ばれ、「土師寅」が米を送ったことが墨書されており、土師氏が本拠地としていた所でその名がついた。 土師氏は野見宿祢を祖先とする氏族で、野見宿祢については、『日本書紀』垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。それによると、大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿祢は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えた。そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、とある。野見宿祢の「野見」は、石材を加工する際に使われている道具である「ノミ」と関連があるとみられており、野見宿祢が石材とかかわっていたと言う推定がある。この伝承は、石材を供給する二上山の支配権が、在地の当麻氏の手から、野見宿祢に移ったことを示唆する。 野見宿祢に関する2つ目の伝承として『日本書紀』垂仁32年7月6日条があり、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命が亡くなった。それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿祢が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを天皇に奏上し天皇はこれを非常に喜び、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿祢に与えたとある。 当時も技術的には出雲が先進であったことを示唆する。 後に、土師猪手が周防国佐波に来目皇子の殯宮の造営や、天皇の詔によって吉備姫王の葬儀執行を担当した。また、土師氏は、河内国に古墳墓を増産し、隆盛を誇った。 やがて土師氏は、桓武天皇にカバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土師氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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