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土御門 泰福(つちみかど やすとみ、明暦元年6月20日(1655年7月23日)-享保2年6月17日(1717年7月25日))は、江戸時代前期の公卿(非参議)・陰陽家。土御門泰広の子でその弟隆俊の養嗣子とされているが、実父を隆俊あるいは泰重(泰広・隆俊の父)とする異説もある。子に土御門泰誠・泰連・泰邦ら。一般には土御門神道の祖として知られている。 泰広・隆俊の死により泰重の後継者となり、寛文元年(1661年)の泰重の死によりその家督を継いだ。 土御門家は、代々陰陽頭を務めていたが、江戸時代初期に土御門泰重がその座を幸徳井家に譲渡、その後その陰陽師支配の権限を巡る争いから陰陽頭の返上を求める泰重とこれを拒む幸徳井家側との対立が長く続いた。泰福が元服して正六位下蔵人兼近衛将監に任じられた寛文10年(1670年)にも泰福と幸徳井友傳の間で陰陽頭を巡る相論が発生するも、天和2年(1682年)に友傳が35歳で急死、相論の仲裁にあたっていた江戸幕府は友傳の子は幼くて職務が行えないと裁定したため、当時従五位上兵部少輔であった泰福が陰陽頭に就任、継いで翌年には諸国の陰陽師を支配・免許の権限が与えられた。その後春宮少進に進む。貞享元年(1684年)の改暦に際しては大統暦の実施を主張するも、後には山崎闇斎のもとで同門であった渋川春海の貞享暦が優れていることを認めてこれを実施するように上奏し、元禄2年(1699年)には幸徳井家に圧力をかけて土御門家を陰陽道宗家として仰ぐ事を約束させ、同家を支配下に置いたのである。この功績によって元禄11年(1708年)に従三位に昇り、正徳4年(1714年)に従二位にまで昇進する。 また、山崎闇斎から垂加神道を学び、前述の春海や一条冬経・野宮定縁らと結ぶ。また、その影響を受けて陰陽道と神道を組み合わせた独自の神道理論(土御門神道)を打ち立てた。だが、一方で改暦の実質上の中心であった渋川春海が江戸幕府に召されて天文方に入ったために改暦の中心が江戸に移る結果を招いた。 63歳で死去して、墓所は京都真如堂にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土御門泰福」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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