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土御門雅房(つちみかど まさふさ)は鎌倉時代中期の公卿。正二位大納言弾正尹。尹大納言と称される。父は太政大臣土御門定実。母は周防守平政平の娘。子は権大納言に至った雅長。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 文永2年(1265年)4月25日、叙爵。文永4年1月5日、従五位上に昇叙。2月1日、侍従に任ぜられる。文永5年(1268年)1月21日、正五位下に昇叙。文永7年(1270年)閏9月4日、従四位下に昇叙。侍従は元の如し。文永8年(1271年)7月2日、従四位上に昇叙。文永9年(1272年)7月11日、備前権守を兼ねる。文永10年(1273年)12月8日、右少将に任ぜられる。文永11年(1274年)10月3日、左少将に転任。12月20日、右中将に転任。文永12年(1275年)1月6日、正四位下に昇叙。建治2年(1276年)1月23日、伊予権介を兼ねる。閏3月14日、禁色を許される。 弘安元年(1278年)4月19日、従三位に叙される〔父定実の坊官賞の譲り。〕。同月21日、右中将は元の如し。弘安2年(1279年)1月7日、正三位に昇叙〔新院当年御給。〕。同月24日、越前権守を兼ねる。 弘安6年(1283年)3月28日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。弘安7年(1284年)1月13日、左兵衛督を兼ね検非違使別当に補される。また同日、備前権守を兼ねる。弘安8年(1285年)1月5日、従二位に昇叙。3月6日、権中納言に任ぜられる。同月19日、左兵衛督と検非違使別当を辞した。弘安9年(1286年)1月5日、正二位に昇叙。正応元年(1288年)10月27日、権中納言を辞退。 正応5年(1292年)8月14日、父定実が従一位に叙され、9月5日には准大臣の宣旨を得た。永仁3年(1295年)12月29日、権大納言に任ぜられる。永仁4年(1296年)12月27日、父定実が内大臣に任ぜられる。永仁5年(1297年)10月16日、大納言に転正。同日、父定実は内大臣を止められた。同年12月2日、雅房は淳和院別当に補された。永仁6年(1298年)5月、淳和院別当を止められる。8月10日、春宮大夫を兼ねる。正安3年(1301年)1月21日、新帝即位(後二条天皇)により春宮大夫を止める。同年6月2日、父定実が太政大臣に任ぜられる。正安4年(1302年)2月28日、弾正尹を兼ねる。7月には父定実が太政大臣を辞した。雅房は9月28日に薨去。享年41。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土御門雅房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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