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土持 親成(つちもち ちかしげ、生年不詳 - 天正6年(1578年)4月)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向国北部の国人領主。県土持氏の最後の当主。先代土持親佐の子。妻は佐伯惟教の妹。右馬頭を名乗る。居城は縣松尾城(松尾城縄張り図 )。麟松軒とも称する。 系譜については異説があり、島津家・大友家双方に残る史料によると、土持惟親-惟遠-惟仲-惟忠-(伊東氏より養子)親貫-親兼-時貫-親用-親成であるという。 子は養子・高信と実子・親信。他に直綱・為綱・栄武がいたとされるが、兄弟の順や嫡子・非嫡子・養子の詳細は不明。為綱は衛藤太郎左衛門尉の名で秋月家に仕え天正15年に戦死しているとの記述がある様である。 大友家が残した資料では、「土持累代当主中でも親成は智勇兼備の良将であり、県土持氏の最盛期を築いた」と残されている。 == 歴史的背景(耳川以前の状況) == 県土持氏は、日向国北部縣(あがた)を中心に栄えた平安時代よりの名門である。室町時代では日向守護職を兼務していた薩摩島津氏と連携して勢力を保ってきた。しかし、水島の変を機に九州探題今川了俊の命により伊東氏と共に島津討伐を行うことになり、島津氏との連携は断たれた。その後、事実上、日向守護職が空位になると、土持氏はその座をめぐって伊東氏と争うも、結果的に敗北し所領のかなりの部分(財部土持氏支配域)を失うこととなった。以後、失った所領の回復が県土持氏の宿願となり、親成もその例に漏れなかった。 親成は当初、島津氏とは距離を置き、伊東氏と戦う上で後背となる大友宗麟に対して娘を人質に出すなど大友氏に臣従した(旧記雑録後編十)。しかし、伊東氏の衰退に伴う島津氏の日向への本格的進出や、大友家中の混乱(宗麟の急進的キリスト教化政策に対して、宇佐八幡宮氏子衆などの保守派勢力との改宗をめぐる対立などがあった)に加え、県土持氏が宇佐八幡宮の神官を出自とすることもあり、親島津・反大友に傾斜していく。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土持親成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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