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土方 稲嶺(ひじかた とうれい、(享保20年(1735年)または寛保元年(1741年) - 文化4年3月24日(1807年5月1日))は、江戸時代中期から後期の絵師。因幡出身。名は廣邦、のち廣輔。字は子直。号は臥虎軒、虎睡軒。稲嶺の号は、地元の名所稲葉山に因んだと言う。 == 略歴 == 鳥取藩で、代々首席家老を務める倉吉荒尾家の家臣・土方弥右衛門の次男として生まれる。一時、後藤家に養子に入ったという。稲嶺も先祖同様、荒尾小八郎に仕えていたが、故あって職を辞した。 江戸で南蘋派の宋紫石に学び、その画風に心酔する。その後、天明初年には京都に移り、栗田宮家に仕えて画道に精進した。寛政7年(1795年)には、宋紫石の竹画碑がある北野天満宮境内に、自身も同様の竹画碑を建立しており、紫石への敬愛の深さを見て取れる。円山応挙や谷文晁と親交があった。当時京都画壇の中心にあった円山応挙に入門を申し入れた所、その腕前に驚いた応挙が入門を拒んだという逸話も残っている〔『因伯紀要』より。この後稲嶺は谷文晁を訪ね、文晁が稲嶺の画技を試そうと金屏風を出すと、稲嶺はそこに見事な山水画を描いて文晁を驚かせたと続く。ただし、こうした逸話は少し技量ある画家によくある常套句であり、むしろ因幡が日本の中心地から遠いことを思わせる(星野(1972)p.26。〕。ただし、根拠は不明だが『古画備考』土方稲嶺の項目では、「応挙門人」と記されている。 寛政10年(1798年)57歳のときに、鳥取藩主池田斉邦の御用絵師として召し抱えられて、再び故郷に戻る。その際、藩主と同じ字を使うのを憚って、廣輔と名を改めた。寛政12年(1800年)には江戸詰めを命じられたという。文化4年3月24日死去。没年齢は67歳、73歳の二説ある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土方稲嶺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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