|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 土 : [つち] 【名詞】 1. earth 2. soil ・ 土橋 : [どばし] 【名詞】 1. an earthen bridge ・ 橋 : [はし, きょう] 【名詞】 1. bridge
土橋 勝征(どばし かつゆき、1968年12月5日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手、プロ野球コーチ。妻は女優の白島靖代。 ==来歴・人物== 印旛高校の時代は長打力に長け、高校3年夏の千葉大会は決勝戦で、飯田哲也を擁する拓大紅陵高校に敗れたが、この時に記録した1大会5本塁打は、現在も千葉大会の最多本塁打記録である。1986年のドラフト会議でヤクルトに2位指名され入団。背番号は38。 入団後は打撃面で伸び悩み、試合終盤の守備固めの控え選手的な存在だった。また、内野守備でもイップスにかかり、野村克也監督の指示で外野手にコンバートされる。1994年、前年オフに退団したレックス・ハドラー二塁手の後釜として桜井伸一、笘篠賢治、柳田聖人らが起用されたが定着できず、6月には土橋が外野手から二塁手として復帰する。バットを短く持ち、右方向に流し打つ打撃に転向、一時3割を越える好打率を記録。イップスも解消され、入団8年目にしてレギュラーの座を勝ち取った。 背番号を5に変更した1995年は、シーズン途中から3番に座り、129試合に出場して日本一に貢献した。この年は打率2割8分ながら、数字以上の貢献が光り、MVP投票でも3位票を多く集めた。その後も、二塁手以外にも内外野のポジションをこなせるユーティリティプレーヤーとして活躍。チーム状況によって様々なポジションに就き、試合途中での守備位置変更も頻繁にされていた。 野村監督は非常に重宝しており、西武から戦力外通告を受けた辻発彦(同ポジションで、似たようなプレースタイルであった)をヤクルトに移籍させて土橋に勉強させ、主力打者の欠場時には4番を打たせたこともあった。1995年にリーグ優勝した際には、「土橋は裏MVPだ」と最大級の賛辞を送っている(実際にMVPを受賞したのはトーマス・オマリー)。野村が広沢克己、池山隆寛、飯田哲也といった当時のレギュラークラスの選手を何度となく叱責したのに対し、こと土橋に関してはほとんど叱ったことがないと言われるほど強い信頼をおいており、「ID野球の優等生」とも呼ばれた。 2000年と2001年は規定打席に到達したが規定打席達成者の中で一番打率が低かった(規定打席最下位)。入団以来、古田敦也と同様に眼鏡がトレードマークだったが、2000年オフにレーシック(視力矯正手術)をし、同僚の稲葉篤紀にも紹介、眼鏡を外した。 2003年、2004年には規定打席数未満ながら打率3割を記録、健在ぶりを示す。「ハマの大魔神」こと佐々木主浩に引導を渡したことでも印象深い選手である。2004年8月8日の横浜戦で、岩村明憲・古田敦也と共に9回表に三者連続本塁打を放ち、佐々木は翌日登録抹消となった。2005年も4月21日の横浜戦で、9回裏に佐々木からサヨナラ適時打を放った。救援失敗が続いた佐々木はこの試合を最後に二軍落ちし、8月9日の巨人戦で事実上の引退登板をした後、マウンドから姿を消した。 しかし、城石憲之のレギュラー定着や若手起用の方針もあって、2006年序盤で登録抹消されると二軍生活が続き、ついに現役引退。10月15日の対巨人22回戦において、2番・二塁手として先発出場し、現役最終打席となった第3打席で中前安打を放ち、同じく現役引退を表明した山部太と共に、ヤクルト一筋20年の現役生活に幕を下ろした。 引退後、2007年よりヤクルト二軍打撃コーチに就任していたが、2008年4月20日より首痛の大田卓司一軍打撃コーチに代わり期間未定で一軍に合流していた。2009年は一軍内野守備走塁コーチ、2010年から2013年は二軍内野守備走塁コーチ、2014年から2015年は二軍外野守備走塁コーチを務めた。因みに、高校野球千葉県予選決勝を戦い、ヤクルトに同期入団した飯田哲也(当時楽天)とは同じ年に引退し、共にヤクルト二軍コーチへ就くこととなった。2009年は飯田と共に一軍守備走塁コーチを務め、共にコーチスボックスに入った(土橋が三塁、飯田が一塁)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土橋勝征」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|