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地元集中(じもとしゅうちゅう)は、日本の一部の公立中学校において、中学生が公立高校を受験する際に、地元にある特定の高校1校のみを選択するように進路指導する教育運動をいう。地元集中受験運動、あるいは実施されていた地域の名称をとって高槻方式、高槻・枚方方式などとも呼ばれる〔『1期生の思い出』 大阪府立高槻南高等学校〕。また地元集中から地元育成と呼称が変更される例もみられる〔門真市教育部次長答弁 門真市文教常任委員会議事録 1999年6月16日〕。 地元集中は、大阪府の高槻市、枚方市、守口市、門真市、寝屋川市、交野市、茨木市、松原市、大阪狭山市、和歌山県などの一部の地域で、1970年代前半から1990年代中頃にかけて実施されていた。日本教職員組合のみならず教育委員会も推進していた。 かかる指導は、大阪府のみならず複数の地域で繰り広げられており、特に第二次ベビーブーム世代が中学校3年生となった1980年代後半までは顕著であったが、その画一性及び生徒個人の個性や意思を無視した進路指導が保護者を中心として批判の対象となり、かかる運動が激しい自治体・中学校を嫌忌しての転居〔地元集中運動の行われている地域に居住したまま、大阪府内でも地元集中が行われていない地域(大阪市、堺市、東大阪市、吹田市など)の公立中学校へ校区外通学(越境通学)することで、地元集中運動を回避することはほぼ不可能であった。それは、大阪府内の各市町村の教育委員会では、「しない、させない、越境入学」の標語に代表される、公立小・中学校の通学学区を厳守させる指導が学校や保護者に対して徹底されているためである。〕、私立中学への進学という流れの拡大、さらには公立中学・高校の学力レベル低下やそれに伴う公立中学そのものに対する忌避の動きが顕著となり、1990年代には終息に向かったとされる。 == 地元集中と学区 == 地元集中は、「地域の子どもを地域で育て、高校間の学力格差を解消する」ことを目的とした一種の運動であり、正式な制度ではない。大阪府・和歌山県・埼玉県の公立高校の普通科では、中規模な学区制(中学区制)を採用しているため、制度上は誰でも学区内の学力に応じた高校を生徒自ら選択して受験することができる。しかし、地元集中が展開されていた地域では、地元公立高校を目指す進路指導が徹底して行われていたため、学区内にある他の高校への進学、および学区内の他の地域から地元集中高校への進学は困難になっていた。 その背景のひとつとして、高校間格差が激しくなった1960年代末からの日教組や一部教職員の指導、すなわち「15の春を泣かすな」とのスローガンの下、学校間格差是正を目的として、高校全入運動と表裏一体の運動として進められた。当時は、受験戦争と呼ばれる激しい競争が問題視され、日教組に限らずメディアや国民にもこの考え方はある程度は理解されるものであった。それだけではなく、全国の教育委員会においても支配的な考え方であった。その結果、東京都における学校群制度や、京都府における小学区制、他には綜合選抜制など、趣旨としては同様な制度が全国で正式な制度として導入されてきた。このような制度を導入した都道府県においては非正規な手段を用いずとも個性を無視した悪平等が達成できるため、地元集中なる非正規手段は用いられなかった〔ただし、これら自治体ではそれぞれの項目に記されている、成績上位の生徒の私立校への流出に代表される様々な問題点が後に露呈し、多くは単独選抜など別の形態に移行することになった。〕。 一方で、大阪府は中学区制維持の方針を堅持した。中学区制は一学区の中に高校が10~20校含まれ、その中で制度としては自由に受験することができた。また、人口急増や進学率の上昇に伴う高校新設も行われたが、新設校の人気は総じて低かった。つまり大阪府の中学区制は学区の中での伝統校をトップ校とする、学校間ヒエラルキーを維持できたのであり、学校選択によるエリート選抜システムが機能することとなった。この制度に不満を抱いた一部教職員は、東京都のような学校群制度、京都府のような小学区制等を実質的に実現するために“非公式な形で、生徒の意向を無視して、地元の公立高校を受験させる”取り組みを始めた。つまり「地元集中」は競争排除をめざした当時の教職員運動において、競争を維持しようとした大阪府教委の判断を実質的に骨抜きにするための運動であり、中学区制を建前化し実質的に小学区制をとるものであった。つまり「地元集中」と学校群制、小学区制、綜合選抜制は制度として公式か非公式かの違いにすぎず、学校現場から一切の競争を排除するものであり、かかる運動は1960年代後半以降、1990年代まで多くの地域で吹き荒れたと考えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「地元集中」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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