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地名決定委員会 () は、ポーランドの行政省が、1946年1月に設置した委員会で、当時ポーランドで「回復領」と呼ばれていた旧ドイツ東部領土における、場所、村、町、都市などの地名の確定を任務としていた〔.〕。 == 背景 == ===領域と人口=== ポツダム会談の決定によって、オーデル・ナイセ線以東の旧ドイツ領の大部分は、ポーランドの領土に編入され、残っていたドイツ系住民も、大部分が追放された(Flight and expulsion of Germans from Poland during and after World War II)。こうした地域の一部は、中世に遡る歴史的なポーランドとの繋がりがあったが(シロンスク(シュレージエン)公国、参照)、東方植民によってドイツ人(ドイツ語話者)が何世紀にもわたって住んでいた。 1939年のドイツの国勢調査によれば、この領域には885.5万人が住んでおり、その中には最東部にいた少数集団としてのポーランド系住民も含まれていた。このポーランド系少数集団の中には、マズールィ(マスリア)(Masuria)地方(旧東プロイセン南部)のマスリア人(Masurians)、ポメラニア (ポモージュ)地方のカシュビア人(Kashubians)やスロビンシア人(Slovincians)、上シレジア地方(Upper Silesia)のシレジア人(Silesians)などが含まれていた。これらの集団は、戦後「autochthons (先住民)」と称されるようになり、その居住する領域の「ポーランドらしさ」の証拠として使われた〔。ドイツの国勢調査ではポーランド語話者の数を、多言語話者を含めて70万人未満としているが、 ポーランドの人口学者たちは、旧ドイツ領におけるポーランド人の実際の数は120万人〔ないし130万人に達していたと推計している。120万人としている推計によれば、そのうち、およそ85万人が上シレジア地方、およそ35万人が東プロイセン南部(マスリア(マズールィ))に住んでおり、その他の地域を合わせて、さらに5万人程度が他の地域に広がっていたとされている〔。 ドイツ人たちが次々と収容され、追放されていく中で、500万人近い入植者たちが〔Cordell, Andrzej Antoszewski, ''Poland and the European Union'', 2000, p.168, ISBN 0415238854, 9780415238854: によれば、最初の1年で455万人が到来したとされる。〕〔Piotr Eberhardt, Jan Owsinski, ''Ethnic Groups and Population Changes in Twentieth-century Central-Eastern Europe: History, Data, Analysis'', 2003, ISBN 0765606658, 9780765606655, p.142 は、1950年時点で479万人という数字を挙げている。〕、あるいはこの地域に引き寄せられて、あるいは強制されて、1945年から1950年の間にやって来たということになる。さらに、110.4万人の旧ドイツ領時代からの住民(うち85.1万人は上シレジア)が、ポーランド国籍を認められて残留を許された。この結果、回復領におけるポーランド人の人口は、1950年には 5,894,600人に達した〔。 ポーランド政府は、プロパガンダのために、こうした先住民たちができるだけ現地に留まるように努めた。旧ドイツ領における彼らの存在は、地域固有の「ポーランドらしさ」を示すものであるとされ、その地域を回復領としてポーランド国家に併合することを正当化するものとされていた〔。 ポーランド当局は、しばしば中世のポーランド国家を引き合いに出して歴史的領有権の主張の正当性を強調し、「回復領」という用語でこうした領域を呼ぶようになった〔。この地域に到着したポーランドの行政官や入植者たちは、地名の使われ方が一貫しておらず、曖昧だという問題に直面することになった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「地名決定委員会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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