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地車囃子 : ミニ英和和英辞書
地車囃子[だんじりばやし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ち]
  1. (n,n-suf) earth 
: [くるま]
 【名詞】 1. car 2. vehicle 3. wheel 
囃子 : [はやし]
 【名詞】 1. Japanese orchestra 2. band 3. accompaniment
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

地車囃子 : ウィキペディア日本語版
地車囃子[だんじりばやし]
地車囃子(だんじりばやし)とは、地車曳行の際に演奏される祭囃子のことであるが、何らかの事情で山車地車)を保有していない大阪市北部を中心とした地域などで、地車とは独立した音楽として舞台(矢倉)、さらに船渡御の船等において「へたり」で演奏・奉納される祭囃子のことでもある。「へたり」とは(舞台・櫓で)座り(=へたり)込んで叩くという意で、曳行での演奏とは対をなす表現。また、曳行後、舞台・櫓において「へたり」での演奏・奉納がなされる場合も少なくはない。一般には「地車」と「地車囃子」という音楽とは分かちがたいものであるが、一方で、これも一般には大阪天満宮天神祭等の代表的音楽として「地車囃子」は定着している。地車囃子の組曲としての完成度の高さこそが、曳行するだけで組曲にはなりえていない地車の音楽との、もっとも大きな違いなのである。こうして、祭礼のとき以外に、結婚式葬式などはもちろん、オリンピックの誘致活動、なかにはプロボウリングトーナメントの開会式などで演奏されることもあり、さらにはゲリラライブを敢行する保存会やもある。
「だんじり囃子」、「だんぢり囃子」、「摂州だんじり囃子」、「摂州地車囃子」、「天満囃子」、「長柄囃子」、「河内地車囃子」、「大阪地車囃子」等、保存会や講・連によって呼称が異なる。演奏には、親太鼓(大太鼓)、雄鉦・雌鉦()(二丁鉦)、子太鼓(小太鼓)(トコテン)を用いる。また、泉州地域の囃子には篠笛が加わり、南河内地域の囃子は「曳き唄」が挿入されている。さらに、江戸後期の坐摩神社における車楽(=地車)曳行を描いた『摂津名所図会』(1798年のもの)によると、2階建ての地車の床上で囃子に三味線も用いていたのがわかる。だが、「へたり」で囃子が音楽として確立されていくと、笛や三味線は鉦の大音響に負けるため、用いなくなったと言い伝えられている。なお、三味線・「おおど(=平太鼓)」・締太鼓で奏でられる寄席囃子には、『地車』という曲がある(笑福亭仁鶴落語レコードには、この出囃子が用いられたものもある)。
岸和田だんじり祭に代表される泉州地域だんじり祭の地車囃子(この地域では鳴り物という)は、きざみと呼ばれる調子を除き、一拍と二拍の間が長く、二拍と三拍の間が短い、曳き手を急き立てるようなリズムに特徴がある。しかし、囃子方(鳴物)を担当する10代後半〜20代前半の若者のなかに、この独特のリズムがつかめない者が年々増加しており、「均等打ち」と呼ばれる問題が深刻化している。他にも、篠笛の音色の平面化、ホイッスルの多用(特に遣り廻しのスタートを告げる追い役の団扇の合図や口頭での指揮の代わりにホイッスルを用いる)なども問題視されており、後継者の数にはほとんど心配がない反面、若者に任せっぱなしにしてきたことに一因があると言われている。
また、遣り回し(やりまわし)をはじめ、練る・走る・止まる・曲がるといった地車の動きを統御する重要な役目を囃子が果たしている点は、泉州地域独自のものではない。遣り回しはともかく、地車の動きを表現する演奏は河内地域でも見受けられ、また地車のない摂津(大阪市内)でさえも存在する。それぞれが伝統を高度に継承しているといえよう。
==歴史==
16世紀末の、大坂城築城の際の「テーマソング」であったことを、地車囃子の起源とする説が有力である。大阪朝日放送の『歴史街道 』でも語られていたので、ほぼ間違いはないと考えられている。しかし、これは近世初頭ゆえに「地車」とセットでの演奏である。
ところで、大阪市北区の榎神社(堀川戎神社)(堀川のえべっさん)境内の片隅に、地車吉兵衛という狸が祀られている(地車稲荷)。大昔、この吉兵衛さんという狸は、地車囃子を真似て近隣住民を驚かせたという。この伝承を、近代以前より地車囃子という音楽が庶民に浸透していた証拠であるという説もある。
天神祭では幕末昭和にかけて地車の曳行があまりなかったにもかかわらず、それでも地車囃子という音楽が大阪の祭のシンボルとして継承されていた。これは、大阪天満宮だけでなく、かつては宮入りしていたその周辺地域、さらに東西南北にあたる今福・蒲生、福島、平野、長柄等における、それぞれの地元での囃子奉納によって、親しまれていたからと考えられている。
;踊りがメイン
:地車囃子が「地車」から独立した音楽として一般に広く浸透したのは、戦後のことであると考えられている。これはマスメディアの発展と無関係とはいえまい。泉州等の曳行に対抗するためか、お囃子の独自性だけでなく、(囃子にかかわっていた複数の古老によると)「派手に踊ってみたところ、そこにも光があたった」、すなわち当初は新聞雑誌、すぐのちにテレビなどのマスメディアが地車囃子の踊りを取り上げたのである。昭和31年(1956年)を題材とした大阪の小説『泥の河』(宮本輝)に、福島天満宮における「へたり」での地車囃子の演奏が描かれている。小栗康平監督の同作品の映画においても「へたり」での地車囃子の場面があり、踊りがメインの映像であった。メディアへの露出が高い大阪天満宮の天神祭においても、1990年代前半まで動かずに飾り物でしかなかった三つ屋根「地車」を舞台に組み込んだ「へたり」での奉納であり、現在もそうであるが、地車囃子のメインが踊りになっていた。このように、映像メディアが踊りを取り上げたことで、地車囃子という音楽が広く親しまれるようになったと考えられている。
:いずれにせよ、高度経済成長の途上では地車を修理する予算がない場合もあり、それだけではないせよ、「へたり」のみで演奏をおこなう保存会や講・連が増えていった。たとえば、お初天神(露天神社)、服部天神宮長柄八幡宮南長柄八幡宮等がそれに該当しよう。そして、このような囃子と踊りの奉納を重視する「地車」の存在しない地区による地車囃子が公認される一つの契機となったのは、1970年大阪万博の前夜祭における地車囃子奉納が、大阪毎日放送の電波に乗ったときのことであると考えられている。
;派手なバチさばきがメイン
:その後、地車囃子の演奏は、少しずつ広まっていった。1979年3月、大阪城での大阪府神社庁主催のイベントにおいて、岸和田だんじり祭の奉納とともに、長柄八幡宮の摂州だんじり囃子が奉納された。大阪府神社庁が地車囃子を独立した音楽として認めた、その瞬間であった。それを機に、囃子演奏スタイルが変わった保存会、講・連(大阪市平野区の杭全神社で「へたり」での奉納をする平野地車囃子保存会が典型例)があらわれるなど、画期的な地車囃子の奉納であった。そして、1980年代後半、大阪市の青年団体協議会が主宰で、地車囃子の講習会が開かれた。このような大阪市の青年団の活動も、地車囃子の普及に一役買っていた。
:ところが、上記の講習会に参加した者たちの多くが魅せられたのは親太鼓の派手なバチ()さばきにであった。地車囃子という音楽において、もっとも即興性が許されるゆえに親太鼓の演奏は花形でもあった。また、1990年代前半ころ、ビデオカメラカムコーダ)が各家庭に普及し始め、そのカムコーダを用いて長柄八幡宮・南長柄八幡宮、そして「キタ」の華麗さを取り入れた平野地車囃子保存会による、派手な親太鼓の演奏を録画して真似る保存会、講・連が増えていった。一気に、派手な地車囃子の演奏が広まったのである。派手な演奏を新たにとり入れた保存会、講・連は「地車」を保持する地域が少なくなく、そのような摂取を「地車のない地域のものをとり入れるのは全体的な調和が崩される」などと嘆く古老もある。また、地車のない地車囃子のみの地域でも、「鉦・子太鼓、踊りがなおざり」などと嘆く古老もある。
結局、''映像で伝える側も観る側''も踊りを地車囃子のメインとしてとらえ、一方、''演奏する側''は親太鼓の派手なバチさばきを地車囃子のメインとしてとらえた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「地車囃子」の詳細全文を読む




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