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坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名。 == 経歴 == 1916年(大正5年)8月26日、佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外1523番地(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)で農家の三男だった父・坂井晴市と母ヒデの次男として生まれる。名前は祖父の勝三郎に由来している。坂井が5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。父は小さな精米所に勤めたが、坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)秋、36歳で病没。残された母と6人の子供の生活は困窮した。見るに見かねた伯父が兄弟を中学に入れてやろうとして、坂井は東京に引き取られる形で上京した。坂井は新宿府立六中を受験したが落ちて青山学院中等部に進学したが、成績不振で落第して退学処分となった〔『坂井三郎空戦記録(上巻)』講談社プラスアルファ文庫p34-p42〕〔『零戦の秘術』p45〕。 その後は実家に帰され約2年間、農作業に従事した。この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあり、騎手になろうとしたが本家の反対で挫折。同じ西与賀村出身で佐世保航空隊の平山五郎海軍大尉操縦の飛行艇が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れた。「海軍少年航空兵」募集のポスターを見て二回受験したが、不合格になった〔『零戦の秘術』p46〕。 飛行機のある海軍に入れば、近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが1933年(昭和8年)5月1日、四等水兵として佐世保海兵団へ入団する。1933年10月1日、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となる。1935年(昭和10年)5月11日、横須賀の海軍砲術学校に入校。翌1936年(昭和11年)、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に戦艦榛名に配属。大艦巨砲主義全盛の当時、花形とされた戦艦の主砲の二番砲塔の砲手に任せられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われる。受験を上官に打ち明けたところ、主砲の砲手を外され、艦底で装薬や砲弾を扱う弾庫員に回される。それでもめげずに年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。 1937年(昭和12年)3月10日、霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。練習生の中では、操縦が上手いほうではなく単独飛行が許されたのは卒業も近い最後だった〔『零戦の秘術』p91〕。卒業後の延長教育の射撃も上手くはなかった〔『零戦の秘術』p91-92〕。首席を目指して勉強に励んだ結果、希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では昭和天皇名代の伏見宮博恭王より、恩賜の銀時計を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。佐伯航空隊付、戦闘機操縦者としての延長教育を受ける。この佐伯航空隊時代に、操練の三期先輩に当たる原田要が空戦訓練の相手に組まれ、切磋琢磨した〔『原田要『わが誇りの零戦』』桜の花出版p54-58〕。1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日、三等航空兵曹に昇進。高雄航空隊付。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坂井三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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