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坂 元祐〔毛利隆元からの感状には「新坂」と記載されている。〕(さか もとすけ、生年不詳 - 天正3年(1575年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。坂氏の一族で、坂広秀の嫡男と推定される。子に元智。左衛門尉。 == 生涯 == はじめ毛利氏に仕えたが、1524年(大永4年)に広秀らが謀反を起こして殺害されると、大内氏傘下の国人・平賀隆宗の下に落ち延びた。1549年(天文18年)には平賀氏の下で山名理興攻めにも出陣した。隆宗が死去すると、赦されて毛利氏に帰参した。 1555年(弘治元年)には野間隆実が籠もる矢野城攻略戦に参加。坂広秀の謀反の際、元祐と同様に父が処罰され、山内直通の下へ逃亡し後に帰参した渡辺長と先陣を争い勝利した。そして厳島の戦いにも参戦し、その群を抜いた働きにより毛利隆元より感状を得ている。毛利元就の防長経略が始まると、同年には周防国に進出し、玖珂郡山代の山代衆を抱き込み、それを統括する立場となった。また、周防国高森城主となり、周防国進出の橋頭堡として高森城の普請を進めた。翌1556年(弘治2年)には山口へ進撃、その後は長門国へ進出し、大内義長率いる大内氏滅亡の立役者の一人となった。 筑前国博多の権益を巡って、豊後国の戦国大名大友義鎮との関係が不穏になると、1562年(永禄5年)には豊前国・筑前国に出陣した。1568年(永禄11年)には豊前国の要衝・豊前松山城を攻略。翌1569年(永禄12年)に博多を制する要衝・立花山城を攻略して、乃美宗勝・桂元重と共に、立花山城守将となり、毛利氏の筑前国支配の中心人物となった。多々良浜の戦いの後、山中幸盛の出雲国乱入により、毛利軍は急遽撤退。元祐は敵中に孤立した立花山城に籠城するが、最終的に大友方の戸次鑑連(立花道雪)の勧告により降伏。毛利氏が立花山城を攻略した際に籠城兵を丁重に送り返していたため、戸次鑑連も丁重に毛利軍を長門国まで送り届けた。 1575年(天正3年)に死去。家督は嫡男の坂元智が継いだ。子孫は萩藩大組士(禄高82石)として続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坂元祐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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