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坂戸山 : ミニ英和和英辞書
坂戸山[さかど]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さか]
 【名詞】 1. slope 2. hill 
: [と]
 【名詞】 1. door (Japanese-style) 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

坂戸山 ( リダイレクト:坂戸城 ) : ウィキペディア日本語版
坂戸城[さかどじょう]

坂戸城(さかどじょう)は、新潟県南魚沼市に存在した大規模な日本の城山城)。坂戸山山頂(標高634メートル)に本丸、麓に平時の住居跡の遺構が見られ、魚野川をはさんで、三国街道を見下ろす交通上の要地に位置する。1979年昭和54年)6月11日、国の史跡に指定された。上田長尾氏ゆかりのとして知られており、長尾政景上杉景勝直江兼続の居城として名高い。上杉謙信の姉仙桃院の嫁ぎ先でもある。また上杉景勝が会津へ移され、かわって堀氏が越後に入ると、堀直寄が坂戸城主を務めたことで知られる。
== 沿革 ==

中世越後の魚沼郡南部(南魚沼郡)には上田荘があり、鎌倉時代頃には清和源氏新田氏一族の勢力下にあって、当時、荘の中心を扼する坂戸山に城郭が築かれていたものとも推定されるが、本格的な造営は南北朝時代にはいって以降のことと考えられている。
南北朝動乱において、北朝方に立った上杉氏は、越後国南部から南朝方に属した新田氏らを放逐し、上杉憲顕のときに越後の守護に任じられたが、その家臣長尾高景の一族の者が、文和年間(1352年-1355年)に上田荘を領し、上田長尾氏を称して、坂戸山を居城にしたと伝承される。こののち上田長尾氏は、守護代長尾氏とならんで越後国に枢要な位置を占めた。その居城である坂戸城は、越後府中(現在の上越市直江津地区)と関東平野を結ぶ陸上交通の抑えとして、また、魚野川を利用した河川交通の要所として、さらに魚沼の穀倉地帯を擁する経済上の要地として、重要な役割を担うこととなった。
守護代長尾為景は、永正4年(1507年)、越後の国人衆を糾合して守護上杉房能を排斥し、永正7年(1510年)には関東管領上杉顕定をも長森原の戦いにおいて敗死させて越後一国に覇を唱えた。上田長尾氏は守護代長尾氏に対して一定の独立性を保持したものの、為景の死後、長尾景虎(上杉謙信)が越後国主となるにおよび、天文20年(1551年)には上田長尾氏の長尾政景が上杉謙信に坂戸城を包囲され、謙信に誓詞を提出して、その軍門に降ったとされる。なお、その後、政景は立身するものの、永禄7年(1564年)、付近の野尻池にて琵琶嶋城主宇佐美定満下平吉長とも)との舟遊び中に定満とともに謎の死を遂げている。

謙信の死後政景の子で謙信の養子となっていた上杉景勝と、後北条氏出身の上杉景虎との家督争い御館の乱が勃発する。景虎の要望に応えて出陣した北条氏照氏邦(景虎の兄)らは入越すべく、三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。しかし景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。そして景虎は翌年滅亡、北条勢の越後への侵入をこの城で阻んだことが景勝方の勝利の大きな要因となった。
乱を制して景勝が春日山城主になると、父が政景の家臣であった樋口兼続(のちの直江兼続)をはじめとする「上田衆」が景勝の直臣団を構成するようになり、同時に、坂戸城は、春日山城の有力な支城として領国経営の重要拠点となった。兼続も坂戸城主に任じられている。
景勝は、天正10年(1582年)に越中方面で織田信長の軍勢と交戦しており、その際、上野国厩橋城群馬県前橋市)から越後に侵入した滝川一益の軍勢とも戦っているが坂戸城は持ちこたえている。
慶長3年(1598年)、景勝は陸奥国の会津地方に転封となり、かわって越前国から堀秀治が越後に入部すると、坂戸城には、秀治の家臣堀直寄が入り、上田3万石を領した。直寄は坂戸城を山麓の居館部を中心に近世城郭へと改修している。
慶長15年(1610年)堀直寄が信濃国飯山に移されたのち、坂戸城は廃却された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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