|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 坂 : [さか] 【名詞】 1. slope 2. hill ・ 西 : [にし] 【名詞】 1. west ・ 志 : [こころざし] 【名詞】 1. will 2. intention 3. motive ・ 保 : [ほ] 1. (n,vs) guarantee
坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6日 - 1976年(昭和51年)1月14日)は、学者、評論家。なお、名についてしおとする資料もある。 坂西志保自身の英文署名には「Shio」、日本語署名には「志保」を用いており「しほ」はその読みである。戸籍には「シホ」とある。「志保」は聖書の「地の塩」による。因みに、志保の誕生した頃の聖書の当時の表記は「塩(しほ)」であるが、その後聖書翻訳の改訂があり「しお」と表記される。 == 経歴 == 東京生まれ〔『日本近代文学大事典』。〕。幼い頃、キリスト教の洗礼を受けた。北海道小樽市で育ち、横浜山手の捜真女学校を卒業後、東京女子大学に入学。中退後に東京学院中等科(現在の関東学院中学校高等学校)の教師となる。 1922年(大正11年)にアメリカに留学。3年後にホイートン大学を卒業し、1929年(昭和4年)にミシガン大学大学院で美学を学び哲学博士の学位を取得した。ホリンス大学哲学部助教授を務めた後、アメリカ議会図書館日本課長に就任し、日本文化に関する書籍・資料の収集に当たった。 その一方、坂西は日本海軍の優秀なスパイであり、「米国における日本のベストの要員の一人」(アメリカ海軍情報将校エリス・ザカライアス大佐による評価)として、アメリカの情報当局からマークされていた。そのため1941年(昭和16年)12月7日の日米開戦と同時に、在米日本人女性としては唯一のケースとして拘束・抑留され、翌1942年(昭和17年)6月に日米交換船で日本へ強制送還された。そして帰国後は、外務省の嘱託やNHKの論説委員等を務めアメリカの国情についての解説や分析に当たった。終戦は疎開先の千葉県我孫子町で迎えたという。 第二次世界大戦終結後はGHQに勤務した後、外務省や参議院の専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、憲法調査会委員、日本ユネスコ国内委員、放送番組向上委員会委員長、立教大学講師を務めるなど、立法、行政、教育の分野において積極的に発言した。 1963年にNHK放送文化賞を受賞。1964年6月から1974年9月まで国家公安委員会委員を務めた。 1976年1月14日に心筋梗塞により晩年暮らした神奈川県大磯町の自宅で死去。 遺言により国際文化会館に5000万円と自宅、自ら理事長を務めた殉職警察官遺児育英基金に1000万円が寄付された〔また、国家公安委員を務めた際の給与は全額同基金に寄付していたという。『朝日新聞』1977年1月15日付朝刊22頁〕。 大磯町立図書館には蔵書が寄贈され「坂西文庫」と名付けられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坂西志保」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|