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坊城 俊章(ぼうじょう としあや、1847年3月10日(弘化4年1月24日)- 1906年(明治39年)6月23日〔『明治維新人名辞典』870-871頁。〕)は、幕末の公家、明治期の陸軍軍人・政治家。陸軍歩兵中佐、貴族院伯爵議員。幼名・修丸〔『平成新修旧華族家系大成』下巻、469-471頁。〕。 ==経歴== 山城国京都で坊城俊克の長男として生まれ、父の養子で従兄弟の坊城俊政の養子となる〔。安政4年11月25日(1858年1月9日)に元服し昇殿を許される〔『坊城家譜』〕。元治元年12月25日(1865年1月22日)侍従となる〔。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与、弁事加勢に就任〔『百官履歴 上巻』182-185頁。〕。以後、弁事、外国事務局権補、三等陸軍将を歴任〔。同年8月、旧幕府艦隊に備えて摂泉防禦総督に就任し大坂警備に当たった〔〔。さらに、左少弁、三陸巡察使、陸軍少将、兼三陸磐城両羽按察使、兼三陸磐城両羽按察次官などを経て、明治3年9月24日(1870年10月18日)第一次山形県知事に就任し、明治4年10月5日(1871年11月17日)に免本官となる〔。その後、ロシア帝国、ドイツ帝国に留学し、1874年7月に帰国した〔〔。その後、近衛歩兵大隊長、第一師管軍法会議判士長などを務め、陸軍歩兵中佐に進み、日清戦争では台湾兵站司令官として従軍した〔〔。 養父・俊政の死去に伴い、1881年11月7日、家督を相続〔。1884年7月7日、伯爵を叙爵〔『官報』第307号、明治17年7月8日。〕。1897年7月、貴族院伯爵議員に選出され死去するまで在任した〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』29頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坊城俊章」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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