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坊城 定資(ぼうじょう さだすけ)は鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。権大納言・坊城俊定の嫡男で、坊城家第2代当主。 == 経歴 == 建治4年(1278年)従五位下に叙爵。弘安3年(1280年)従五位上に進み、弘安8年(1285年)に正五位下・左兵衛佐に叙任。正応元年(1288年)中宮権大進を兼ねた。 正応4年(1291年)に左衛門権佐に転任。防鴨河使を兼ね、正応5年11月(1293年1月)五位蔵人に補任された。永仁5年(1297年)右少弁を兼任。永仁6年(1298年)正五位上・左少弁に叙任。同年春宮大進を兼帯して胤仁親王(後の後伏見天皇)に仕え、また伏見上皇の院政を助けた。正安元年(1299年)従四位下・権右中弁、正安2年(1300年)従四位上・右中弁と順調に昇進を重ね、右宮城使を兼任。さらに同年末、正四位下に叙せられた。 正安3年(1301年)内蔵頭を兼ねる。正安4年(1302年)左中弁に転じると、さらに蔵人頭に補せられ、左宮城使・装束使を務めた。乾元2年(1303年)参議に任ぜられて公卿に列し、右大弁に転任。嘉元2年(1304年)従三位・近江権守に叙任され、徳治元年12月(1307年1月)権中納言に進んだ。この前後に左大弁・修理大夫・造東大寺長官・左兵衛督・検非違使別当・左衛門督を兼帯した。また、花園天皇の即位に伴って伏見上皇の院政が再開されるとその伝奏を務めた。 延慶2年(1309年)正三位に昇叙。延慶3年(1310年)さらに従二位に進むが、同年権中納言を辞退。応長元年(1311年)本座を聴され、正和元年(1312年)に兵部卿を兼ねた。正和2年(1313年)正二位に至り、正和4年(1315年)民部卿、次いで大宰権帥に遷った。文保元年(1317年)伏見上皇が崩御すると、その子の後伏見上皇が後をついで院政を行うが、定資は引き続き上皇の側近として伝奏を務めるなど、持明院統に接近した。 文保2年(1318年)大宰権帥を辞退。同年大覚寺統の後醍醐天皇の即位に伴って後宇多上皇の院政が再開されると、その伝奏を務める。しかし、伝奏としての活動を示す記録は少なく、本郷和人は母方(母は後宇多天皇に仕えた女官)の縁で名目だけの伝奏であり、むしろ後伏見上皇の近くで執権として活動した可能性を指摘している。史料上でも文保3年(1319年)には後伏見上皇とその女御西園寺寧子が定資の住む吉田第に方違を行うなど〔『花園天皇宸記』文保3年正月8日条。〕、引き続き定資が持明院統側に近いことが確認できる。その後大覚寺統の治世中である10余年は官に就かず、元徳2年(1330年)病となり、7月11日辰の刻、散位のまま66歳で薨去した。その死は頓死であったと伝えられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坊城定資」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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