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坊門 清忠(ぼうもん きよただ)は、鎌倉時代から南北朝時代初期にかけての公卿。従三位坊門基輔の孫にして、左中将坊門俊輔の子。後醍醐天皇の古参の側近として建武政権下で活躍し、南北朝分立後は南朝に仕えた。 == 経歴 == 前半生の官歴は明らかでないものの、嘉元3年(1305年)9月亀山法皇の崩御に際して尊治親王(後の後醍醐天皇)らとともに哀傷歌を詠進していることから〔『増鏡』巻11「さしぐし」〕、この頃には既に後醍醐の近臣として仕えていたと考えられる。後醍醐親政下の正中3年(1326年)2月右大弁に達し、翌嘉暦2年(1327年)7月従三位に叙されて公卿に列した。次いで同3年(1328年)参議に任じられて左京大夫を兼ねる。元徳3年(1331年)1月には参議を辞しているが、後醍醐に供奉して笠置へ赴いた形跡はない。 元弘3年/正慶2年(1333年)光厳天皇の廃位によって還任し、建武政権下の建武元年(1334年)には信濃権守・大蔵卿を兼ね、従二位に昇叙した他、雑訴決断所の二番衆(東海道担当)を務めている。『太平記』によると、建武2年(1335年)鎌倉の足利尊氏と京の新田義貞との抗争が表面化し、互いに相手方討伐の綸旨を要求すると、清忠は結論を控えつつも義貞の言い分に理があると主張し〔『太平記』巻14「新田足利確執奏状事」〕、翌延元元年/建武3年(1336年)5月九州より東上した尊氏を迎え討つ際に、天皇の比叡山臨幸を献策した楠木正成に対し、清忠は「義貞が一戦も交えぬまま、帝が年に二度まで京を捨てるとは、帝位を軽んじ官軍の面目を失わせるもの」との大義名分論を振りかざして反対したという〔『太平記』巻16「正成下向兵庫事」〕。その結果、正成は湊川の戦いで戦死し、後醍醐は比叡山遷幸を余儀なくされたため、近世、正成(楠公)崇拝の気風が高まる中では、清忠は忠臣楠公を死地に追いやった佞臣として筆誅が加えられることとなった〔安積澹泊の『大日本史』論賛は、清忠について、「一言斃二良将一、国事不レ可レ為。孔子悪三利口之覆二邦家一、正為二此輩一也」と厳しく非難している。〕。尊氏の京都奪回に伴い、12月に後醍醐は吉野に潜幸して南朝(吉野朝廷)を樹立したが、延元2年/建武4年(1337年)3月頃に清忠はこれを追って吉野入りし、南朝政権の一角を占めたようである。1年を経た延元3年/建武5年(1338年)3月21日に薨去した。享年56という。 『新葉和歌集』には、後醍醐が清忠らの死を悼んだ次の御製がある。「こととはむ人さへまれに成にけり我が世のすゑの程ぞしらるる」(哀傷・1376)。 和歌は『続千載和歌集』に1首、『新葉和歌集』に2首が入集した他、『拾遺現藻和歌集』・『臨永和歌集』・『松花和歌集』などの私撰集にも入集がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坊門清忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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