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城アキラ : ミニ英和和英辞書
城アキラ[しろ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しろ]
 【名詞】 1. castle 

城アキラ ( リダイレクト:ジョー山中 ) : ウィキペディア日本語版
ジョー山中[じょー やまなか]

ジョー 山中(ジョー やまなか、1946年9月2日 - 2011年8月7日時事ドットコム:歌手、俳優のジョー山中氏死去 時事通信 2011年8月7日閲覧〕)は、日本ミュージシャン俳優プロボクサー神奈川県横浜市出身。本名は山中 明(やまなか あきら)。プロボクサー時代のリングネーム城 アキラ。芸名のジョーは親交のあった画家・城景都がロックバンド活動をしていた頃に、その名前を気に入り、自ら「城」と付けたことに由来する。3オクターヴの声の持ち主。ライブ活動を中心に、映画テレビドラマへも出演するなど、幅広い活動を行っていた。
== 来歴 ==

* 7人兄弟の中で唯一の混血児として生まれる。父親を「本当の父親は顔も名前も知らない。日本に進駐していたアメリカ軍の兵隊だったらしい(中略)おふくろは一時、黒人兵と暮らす。それでお腹に宿したのが俺だ」と記述〔ジョー山中 『証(あかし) ― 永遠のシャウト』より。〕、ソロ・アルバムの『W's』の中村俊夫のライナーノーツでも父親を「アフリカ系アメリカ人」としている。小学生時代に母を亡くした上、自宅が火災で全焼。結核で2年間入院した後、約16歳まで養護施設を転々として育つ。中卒後、自動車の修理工場に勤務。
* 1962年 - 腕っぷしの強さを聞きつけた金平正紀にスカウトされ上京し、金平ジムへ入門。リングネームは正紀による命名で城 アキラ東京スポーツ、2007年10月23日。〕〔竹原慎二vsジョー山中・癌と戦う!|BOXING MASTER 〕。プロデビューは17歳で、ジムの意向によりライト級からフェザー級に転向するも、無茶な減量が祟り体調を崩して入院し、東日本新人王の準決勝を棄権している。通算成績は4勝1敗1KO。
* 1963年 - 混血児をテーマにした映画『自動車泥棒』で安岡力也たちと共演。
* 1966年 - GSグループ「4・9・1(フォー・ナイン・エース)」に城 アキラの芸名で加入し、ボーカルを担当。翌年シングル『星空を君へ』でデビュー(録音後に加入のため、レコーディングには不参加)。68年脱退。
* 1968年 - 内田裕也の誘いに応じ、ロックバンド「フラワー・トラベリン・バンド」の結成にボーカルとして参加。1970年アルバム『ANYWHERE』でデビューし、また同年、クニ河内とフラワー・トラベリン・バンドのメンバーである石間秀樹とのコラボ作『切狂言』を「クニ河内とかれのともだち」名義で発表。1971年にはフラワー・トラベリン・バンドの2ndアルバム『SATORI』をアメリカカナダで同時発売、EL&Pとツアーするなど国際的に活躍。
* 1973年 - 4月の京都公演を最後にバンドは解散。以後はソロに転じ、翌年アルバム『Joe』をリリース。
* 1975年 - 8月、内田裕也が主催した「第1回ワールド・ロック・フェスティバル」に、フェリックス・パパラルディ(元マウンテン)のグループの一員として出演し、トリではジェフ・ベックとのセッションも行った。
* 1977年 - 映画人間の証明』に俳優として出演。主題歌「人間の証明のテーマ」(歌詞は西條八十の詩の英訳)も担当し、オリコン最高2位、約51.7万のヒット。
* 1977年 - 大麻取締法違反容疑で逮捕。
* 1979年 - 映画『戦国自衛隊』サウンドトラック制作に参加、挿入曲「もうなくすものはない」「GOIN' HOME」を作詞・作曲、エンディングテーマ「ララバイ・オブ・ユー」(作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、シングルカット)を含めた3曲を歌唱した。
* 1980年 - 映画『戒厳令の夜』で音楽監督を務める。また、ロックミュージカル『'80 ハムレット』に主演。
* 1981年 - 劇場版アニメ『あしたのジョー2』でカーロス・リベラの声と主題歌:「あしたのジョー2のテーマ〜明日への叫び〜」・挿入歌:「青春の終章(ピリオド)〜JOE…FOREVER〜」を担当。
* 1982年 - ウェイラーズ・バンドとアルバム『レゲエ・バイブレーション1』を発表。その後『レゲエ・バイブレーション2』、『レゲエ・バイブレーション3』を発表し、レゲエミュージシャンとしても高い評価を得る。
* 1989年 - 映画『座頭市』に出演。
* 1990年 - ハリウッド映画オリテリア・モーティブス』に出演。また、この頃からチャリティーボランティアへの参加も活発になり、アジアアフリカなど各国を訪問。その活動はライフワークとして終生続けられた。
* 2001年 - 3月にソロ・アルバム『W's』を、6月には自伝『証 Akashi 永遠のシャウト』を発売。
* 2006年 - 2月に、クニ河内、金子マリと共にコラボ・アルバム『Mr. Rally - stupid philosopher ミスターラリー頓間な哲学者』発売。クニ河内とは『切狂言』より36年ぶりとなるコラボとなった。
* 2007年 - フラワー・トラベリン・バンドがオリジナル・メンバーによる再始動を発表し、翌2008年から活動を開始。フラワー・トラベリン・バンドの再始動アルバム『We Are Here』(カナダ・トロント録音)は2008年リリースとなり、また、2008年~2009年にかけて、日本、カナダ、アメリカでライヴを行なう。
* 2009年 - 8月にソロ・アルバム『レゲエ・バイブレーション-4-Going Back To Jamaica』(ジャマイカ録音)発売。
* 2010年 - 2月に肺癌が見つかり、3月25日、自らのホームページで治療中であることを公表。親交のあった千葉真一から「抗ガン剤はやめたほうがいい」と免疫療法を勧められたが、化学療法を始めていた。千葉は山中の曲では「ララバイ・オブ・ユー」が一番好きだと語っている。
* 2010年 - 9月6日 バーベキューの火の不始末から自宅全焼。
* 2011年
 * 3月に発生した東日本大震災の募金活動に参加〔、5月にはチャリティーライブ実施。
 * 7月下旬に心肺停止状態に陥り〔、8月7日午前6時56分に肺癌のため神奈川県横須賀市の病院で死去。〔〔人間の証明…ジョー山中さん死去 日刊スポーツ 2011年8月7日閲覧〕。自身はクリスチャンではなかったが、クリスチャンである妻の希望により葬儀・告別式はキリスト教式(11日・キリスト品川教会)で営まれた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョー山中」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Joe Yamanaka 」があります。




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