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城山城(きのやまじょう)は正平7年/文和元年(1352年)に赤松則祐が築城した播磨の日本の城。兵庫県たつの市の亀山(きのやま)(標高458m)の山頂にあった。 元々この山には663年の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えて築城した古代山城があった。 == 沿革 == そもそも赤松氏の居城は則祐の父赤松円心が築いた白旗城であったが、播磨の西に寄りすぎていたため、新たな居城として則祐が正平7年/文和元年から10年以上の歳月をかけ、この兵庫県下屈指の山城を築いた。麓には則祐・義則の2代にわたる守護所、「越部守護屋形」があった。 嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱の際、赤松満祐(義則の子)は当初はこの時分の守護所である坂本城に籠って室町幕府軍を迎え撃とうとしたのだが、坂本城では長期の籠城戦には耐えられないと判断し要害である城山城に移動した。が、9月8日には山名宗全と幕府に味方した赤松満政の軍に包囲され、翌9日に攻撃を受けた。それを受けて籠城していた満祐の弟赤松義雅は嫡男の千代丸と共に満政に降伏、義雅は千代丸を満政に預けて自害した。その一方で満祐と義雅の甥赤松則尚は逃亡に成功している。10日には総攻撃が行われ、満祐は嫡子教康や弟則繁らを逃がし、一族69名とともに自害して城は落城した。 その後、山名宗全の統治を経て再び赤松氏の城となったが天文年間に尼子晴久に攻め込まれて陥落し、播磨攻略の拠点とされた。しかし、尼子軍が撤退するといつしか廃城となった。 現在、嘉吉の乱による城山落城の際に討ち死にした赤松一族らの供養塔が本丸跡や麓の集落に多数建てられ、赤松一族の霊を弔うための盆供養、さいれん坊主が毎年8月14・15日に行われ、たつの市無形文化財に指定されて、赤松一族の末裔らによるさいれん坊主保存会によって祭礼の伝承がなされている。 ファイル:Kinoyama20.JPG|亀山 ファイル:Kinoyama02.JPG|亀山山頂 ファイル:Kinoyama06.JPG|城山城本丸跡 ファイル:Kinoyama03.JPG|旧揖保郡新宮町観光協会による説明文 ファイル:Kinoyama04.JPG|城山城本丸跡の赤松一族供養の石造物 ファイル:Kinoyama05.JPG|城山城本丸跡の赤松一族供養の石造物 ファイル:Kinoyama16.JPG|城山城より南望する中垣内川流域に集落 ファイル:Kinoyama12.JPG|城山城より南望する播磨灘家島諸島 ファイル:Kinoyama17.JPG|城山城より北望する揖保川流域 ファイル:Kinoyama18.JPG|城山城より北望する揖保川流域 ファイル:Kinoyama19.JPG|城山城より北望する揖保川流域 ファイル:Sairennbouzu04.jpeg|井関三神社の播磨の奇祭 さいれん坊主 ファイル:Sairennbouzu03.jpeg|井関三神社の播磨の奇祭 さいれん坊主 ファイル:Sairennbouzu02.jpeg|井関三神社の播磨の奇祭 さいれん坊主 ファイル:Iseki sairenbouzu.jpeg|井関三神社の播磨の奇祭 さいれん坊主 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「城山城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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