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基肄城(きいじょう/きいのき、椽城)は、現在の佐賀県三養基郡基山町・福岡県筑紫野市の基山(きざん)にあった日本の古代山城(朝鮮式山城)。城跡は国の史跡に指定されている。 天智天皇4年(665年)に大宰府防衛のため築城された。 == 概要 == 白村江の戦いののち、天智天皇が665年(天智4)に筑前国の大野城とともに建設した、日本最古の古代山城(朝鮮式山城)である。日本書紀によれば、実際の建築は亡命百済貴族である憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)が当たったとされている。 椽(き;基肄城とも書いた)城は、太宰府の南方、筑紫野市南と佐賀県三養基郡基山町北とが接する標高404メートルの基山(きやま)から標高414メートルの北帝かけてに築かれ、四方を4200メートルにわたって土塁が取り巻いている。北方に1ヵ所、東方に2ヵ所、南北に1ヵ所の城門を開き、土塁の内側には約40か所に上る倉庫の礎石群が点々と存在している。 唐、新羅による侵攻に備え、博多湾からの正面に水城、大宰府の北に大野城、有明海からの侵入に備えて南には基肄城を築き、山口県に築かれた長門城とともに大宰府を守る羅城形式の大防衛線が整えられた。 基肄軍団と呼ばれる約500人以上の防人が配備されていたと考えられているが、実際に半島からの侵攻は行われなかったため、平安時代の初めには軍団は廃止されている。なお、軍団の印はまだ発見されていない。 土塁、城門、水門、建物の礎石などの遺構が遺存しており、その規模はきわめて大きく、城郭史上における価値がすこぶる高いとして1937年(昭和12年)12月21日、国の特別史跡に指定された。 なお、2003年(平成15年)には大宰府の東側からも阿志岐城(旧名:宮地岳城)が発見されているが、この城は文献になく、築城年が不明なので、大宰府との詳細な関係は分かっていない。 画像:基山 山頂.JPG|基山山頂 基肄城跡地 画像:基肄城 水門.JPG|南門跡脇に現存する、水門 画像:基肄城展望台からの基山町南部.JPG|基山展望台より基山町、小郡を望む。右側が鳥栖、更に右側と遠方が久留米 画像:とうれぎ土塁1.JPG|とうれぎ土塁。現存する部分。奥に案内板が有り 画像:とうれぎ土塁2.JPG|とうれぎ土塁。千塔山丘陵側から向井平原丘陵方面を望む。画面中央奥が基山 画像:とうれぎ土塁から基山山頂.JPG|とうれぎ土塁跡から、基山山頂を撮影。中央が天智天皇欽仰之碑。右に展望台。左隣が霊霊石 画像:関谷土塁跡.jpg|関谷土塁跡地。千塔山丘陵から城ノ上丘陵を望む。中央の会社敷地内に標柱(下方白色ゲート左側)と国道3号脇に案内板があるのみ 画像:基山山頂部土塁1.JPG|急斜面の頂上部に、更に土塁を造る事で、攻略を困難にさせる 画像:基山山頂部土塁2.JPG|アップで撮影。現在はかなり崩されている 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「基肄城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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