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基隆市(キールンし、、)は台湾北部にある省轄市である。台湾で2番目の貨物取扱量を誇る基隆港を抱え、台湾の貿易・物流の重要拠点である。観光では奠済宮を中心に栄えた夜市(廟口小吃)が特に有名。 == 歴史 == 基隆はもともと同地一帯に住んでいた台湾原住民平埔族ケタガラン族の族名がなまってケランとなり、それに台湾語音によって漢字が宛てられ、鶏籠(雞籠, ケーラン)と呼ばれていた。今日でも台湾語での呼称はこれで呼ばれる。 1626年にスペイン人が社寮島(現在の和平島)を占領しサン・サルバドル城を築き、その頃には先住民や漢人の町が形成された。1642年にオランダ人がスペイン人に代わって社寮島を占領し、石炭や金の採掘に着手したが、1668年に鄭成功がオランダ人を駆逐し拠点とした港町である。その後1683年に清朝が鄭成功一派を撃破した後に清国の支配下に入る。これにより入植する漢人が増えたが、イギリスの軍船による侵犯事件が起こる。清朝統治時代の1863年、対外的に正式に開港した。さらに1875年に清朝政府がここに台北分防通判を置いたことから、ケーランと近い音でさらに「基地昇隆」の意味を込めて、鶏籠から基隆(キールン)に改変した。 1884年にフランス軍が基隆に上陸し劉銘伝率いる部隊と8ヶ月に渡り対峙する清仏戦争が起こった。1886年に劉銘伝は台湾巡撫に就任し、基隆の重要性を認識していたので、鉄道の施設、港湾や砲台の修復を積極的に進め、台湾初となる鉄道トンネルとなる獅球嶺トンネルを完成させた。 1895年に日本が馬関条約により台湾を接収、澳底に上陸ののち基隆に入った。基隆は日本統治時代以前から対外貿易の拠点となっていたが港湾の水深が浅く岩礁も多かったため大型船の停泊には適さず、近代的な港としての発展には限界があった。日本政府は台湾統治を開始した4年後の1899年より港湾周囲の浚渫(しゅんせつ)工事と防波堤の建設などを進め、1万トン級の船舶が停泊可能な近代港湾として整備した。同時に基隆は台湾縦貫鉄道の北側の起点とされ、その経済的な重要性はさらに高まった。また軍事面でも基隆は日本海軍が駐留する軍港とされ要塞地帯(基隆要塞)にも指定されていた。 基隆は台湾北部に位置し日本に最も近い立地より日本内地との貿易港としても繁栄した。また内地から移住する多くの日本人により急速に都市化が進展、1925年には市制が施行され人口は約7万(内地人が25%)の都市へと発展した。太平洋戦争(大東亜戦争)中は、その重要性から米軍の攻撃も受けている。 現在、基隆は台湾北部の港湾都市として、台北の外港・衛星都市として発展している。1984年には、コンテナ業務の取扱量世界第7位を記録し、輸出入取扱総額台湾一の港湾として現在に至る。このために外省人が多く、国民党の強い土地柄となっている。近年は基隆港周辺の整備による観光化が行われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「基隆市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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