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堀川 具守(ほりかわ とももり)は鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。太政大臣・堀川基具の長男。堀川内大臣と号す。 == 経歴 == 建長2年(1250年)従五位下に叙爵。建長5年(1253年)従五位上に叙せられ、侍従に任ぜられる。建長7年(1255年)には禁色を聴され、建長8年(1256年)正五位下に昇叙。 正嘉2年(1258年)従四位下・右近衛中将に叙任される。正元2年(1260年)正四位下・信濃介となり、文永3年(1266年)因幡介を兼ねる。文永4年(1267年)従三位に叙せられて公卿に列し、文永6年(1269年)には参議に任ぜられた。文永7年(1270年)には正三位に進み、加賀権守を兼任。文永8年(1271年)には従二位に叙せられ、文永11年(1274年)に権中納言に昇任した。建治元年(1275年)熙仁親王(後の伏見天皇)の立太子に伴い春宮権大夫を兼ね、さらに左衛門督を兼帯した。 建治4年(1278年)に正二位に昇叙。弘安7年(1284年)に権大納言に昇任され、帯剣を聴された。正応元年(1288年)淳和・奨学院別当に補任され、正応3年(1290年)に大納言に転じた。永仁3年12月(1296年2月)に大納言を辞退するが、永仁6年(1298年)に還任、永仁7年(1299年)従一位に至った。 嘉元4年(1306年)右近衛大将に任ぜられる。延慶2年(1309年)左近衛大将に転じ、正和2年12月(1314年1月)に内大臣に任ぜられた。しかし翌年これを辞任して、正和5年(1316年)正月19日に病のため出家。法名を覚乗とするが、即日薨じた。享年68。娘の基子が後宇多天皇の後宮に入り、後二条天皇の生母となったため、具守は天皇の外祖父となった〔だが、基子は父・基具の養女となっていた。〕。また、『徒然草』の作者である吉田兼好は具守の家司であったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堀川具守」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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